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菊屋家の蔵には、所蔵する書画、陶磁器、工芸品などなどが収められ、見学することができる。
見所の多い家なので、じっくり時間をとって見に行きたい。
庭は、枯山水というつくり。
庭を流れる川は、水ではなく石が敷き詰められている。
庭の見事な作りはさることながら、変わった形の灯篭など見るものが多くある。
庭の大部分は、明治後武家屋敷を買い足し拡張したとこ。
廃れゆく武家と財力のあった商人との関係が想像できる。
伊藤博文が総理大臣就任後初めて萩へ帰ってきた時泊まった建物。
菊屋家の当時の位置づけがわかる。
庭の中の自然に溶け込む建物が印象的。
庭の梅が建物に彩を添えている。

観光客用トイレが庭への入口。
そこをくぐると、まず見えるはお茶室。
お茶室の手前には壁がありそこに作り手が待機していた。
茶室から主人が客に出す茶の指示を出し、それを確認し茶をたてたと。
右写真は、茶碗を一回ごとに洗うための場所だとか。
普段は非公開という庭園を特別に案内してもらえた。
ばあちゃんと仲良くなったから?人が少なかったから?
理由はわからないけど・・。
庭園
仏間。
畳は同じ方向に配置され、はいてもほこりが立ちにくい仕組みとなっている。
お寺と同じ仕組みというが、その知恵に感心。
土間とそのつくり。
コンクリートのない当時は、にがりを混ぜ土をこね固めたものとなっている。
中写真は小屋組で、架構は水平に通された梁組の上に半間に束を立て、縦横に貫を通して小屋組にしている。地震等建物の揺れ具合で、束が落ち、その落ち具合で地震の規模を計測したという。菊屋にはその役割も与えられていたとか。
ふすまの溝は、全て削られてなく、必要なとこまで削ったつくり。
当時ふすま溝を削る道具が発明されておらず、必要な部分だけ削っていたのだとか。
家の者が利用する出入り口とみせ。
みせは御成道にそって細長く部屋をとり、前に深い土庇を設ける。みせと下みせの間に大戸口を設けるがその内側の通路は幅が狭く、土間の入口を絞るようにしている。
入口が狭いほど家が栄えるということからきているとか。
余談
江戸300年間幕府からの使者が、萩城で応接されることはなかった。
関ヶ原で裏切られたという思いから、城に入れず常に菊屋家で応接を行った。
他国が幕府からの使者を丁重にもてなしたのとは大きく異なる。
毎年正月に殿様が発する言葉がある。
「今年はどうしますか」という問いに、「まだ早い」という答えを。
何のことかといえば、今年こそ幕府を倒しに攻めあがりますかと家来が問うという習慣で、江戸時代を通し毎年続けられたという。
その気概を長州藩は持ち続け、維新へと続く原動力となったのであろう。
主屋座敷として、入口入って正面のふすまの先が床の間。
藩が贅沢を禁止するため庶民に禁止していた床の間も、賓客を接待する菊屋家は例外。
幕府からの使者がここに座り、応接したという。
建物の木材は400年前もので、造りは数寄屋造り。
柱は角材と、丸太が交互に使われているのが特徴。
入口から道なりに進むと、庭の見える広間「書院」にでる。
2月末のこの時期お雛様が飾られ、客間といった風情。
幕使の応接、藩の役宅としても使用された。
畳に座り建物内部から見える景色は、整えられた庭を一望でき心安らぐ時間を味わうことができる。
梅の木には花が咲き、庭を一層引き立てている。
この畳の間に83歳のばあちゃんがいる。
菊屋家建物を案内してくれ、ガイドブックに載ってないような話がどんどんでてくる。
時間があればゆっくり話して、有意義な時間を過ごしてみては。
長屋門から入ると屋敷の入り口がある。
殿様もここから屋敷の中に入ってきたとか。
入り口入ってすぐ横に、当時の着物が飾ってある。
その艶やかさに豪商の優美さを見ることができる。
御成り道に面する菊屋の正面入口である長屋門。
藩や幕府からの使い、来客はここから屋敷に入っていた。

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菊屋家は1604年毛利輝元の萩入国に従い山口から萩に移り、城下の町造りに尽力して呉服町に屋敷を拝領した。また、阿古ヶ浜にに藩士や足軽衆のための惣固屋を建てて住まわせたので、阿古ヶ浜を菊ヶ浜と称するようになった。
その後、代々大年寄格に任命され、藩の御用達を勤めてきて。屋敷は度々、御上使の本陣を命ぜられる等しばしば藩の御用達として借り上げられていた。従って先祖代々常に御用屋敷としての体面整備に配慮して、屋敷建物を維持してきたことから全国でも最古に属する町家として重要文化財の指定を受けている。
内部の見学が可能で、入場料は500円。
藩きっての豪勢な建物や調度品を見ることができる。
菊屋家住宅