東南アジアを放浪記 2

〜異国人との出会い     ・・・バンコク、


出発当日   2/10

サークルのスキー合宿を終えた3日後、ついに時は満ちた。
午後3時出発のパキスタン航空、指定された集合時間は午後1時。雪の降る中、荷物を少なくするため
Tシャツの上に長袖シャツという服装を選び、自分の中ではじき出した所要時間に1時間をプラスして家
を出た。

家を出て30分。順調に進んでいるかと思った計画に早くも狂いが出始めた。新宿で成田特急に5分違い
で乗り遅れ鈍行で行くことになったのだ。津田沼駅に着いたのが集合時間1時間前。成田までは乗り換
えもあり、1時間半かかるという。しゃれにならん。本気であせってきた。飛行機に乗れなければ、そこで
終わり。電車より速いもの、もうタクシーしかないと結論に至る。

タクシーの運転手が、焦って乗り込み、必死で事情を話す姿に同情するように静かに語ってくれたこと。
「航空券に書いてある集合時間は関係無いみたいだよ。」
どうやら、ツアーではなく個人旅行で参加する人に集合時間など有るはずもなく、搭乗1時間前までに行
けば十分というのだ。

知らないということは怖い。自分の甘さと無用な不安を抱えたことに後悔し、最初の授業料1万5千円を支
払い、日本を後にした。

飛行機    

飛行機には何度か乗っているが、乗り慣れているわけじゃない。飛行機が飛び立つ度に遭遇するなんとも
いやな状態。なんか落ちるような予感。いつものように腹をくくる。俺が乗ってるときに落ちるはずが無い、落
ちたら運命。そうすれば飛行機も楽しい乗り物に。

飛行機での思わぬ出会いは、楽しみの一つ。食事が配られた時、隣のおじさんに話しかけられた。食事の材
料が何なのかという内容で、そこから仲良くなりお互いに自分のことを話した。彼はパキスタン出身で、日本
には仕事で何度も来日しているという。出発してからの初めての外国人との会話に、幸先のよさを感じつつ。

この旅で利用したのはパキスタン航空。マニラ・バンコクを経由してのパキスタン行き。タイを目指すには、そ
の北にある国・マニラに先に立ち寄る。マニラ着陸後、客はロビーに移動し、機内清掃を行うという仕組み。
皆下りている姿を見つつ、とった行動。その場で、待機。結局おいてきぼりを恐れ、外に出る危険を避け、邪魔
を承知で椅子に座り続けたというわけ。さすがに拘束9時間の移動は疲れたが、その分思い出も多くできて。


ドム・ミアン空港

夜中の22時、ついにバンコク入り。15時に出て9時間−時差2時間、予定通りの到着。ロビーに出ると熱い空
気が肌に触れた。ついに灼熱の国タイにきたのだ。
さっそくタイバーツを手に入れるためトラベラーズチェックと交換。そして、深夜着くことから泊まる場所を危惧し、
日本で予約しておいたホテルに向かった。タクシーを移動手段に選択するも、お金の価値も分からないままの
支払いは嫌なもの。この旅唯一の高級ホテルでの一泊を満喫し、最初の一日を終えた。

出会い    2/11

2日目、この日に運命的な出会いが待っていた。
この日、タクシー代を浮かすため、ホテルを出てバンコクの安宿街カオサンまで歩いて行くことを決意。地図で見
る限り、空港からホテルまでの距離とホテルからカオサンまでの距離は同じようなもの。体力には自信がある、
歩いていけるはずと。

そんな当初の威勢も、25度を超える暑さの中、ばてるまでそう時間はかからず。道に迷い、自分がどこにいるの
かさえ分からない。昼近くになり太陽の光も強くなりだし、とりあえず木の影で少し休憩をとることにした。
自力での移動はやっぱり無理、次に通るタクシーに乗ろう、次に通る人に道を聞こうと思いつつ、ただ目の前に流
れるの景色を眺めるまま、数十分経過。行動を起こさなくては何も起こらないと意を決し、一人で歩いてくる女の子
に声をかけた。

とりあえず、自分のおかれている状況、ここにいる理由を話すと、彼女も自分のことを話してくれた。
彼女の名前は、オレ。大学生で、今から大学に行く途中だという。自分が大学生だということもあり、勉強内容など
会話もはずみ、とりあえず近くに学校があるから昼飯でも食べながら話そうということになった。せっかくだからと喜
んでついて行き、カフェテラスいわゆる学食でご飯をごちそうしてもらった。

日本とタイの違い。それは人間同士の付き合いだろう。日本は付き合えば深いが、知らない人とは挨拶さえしない。
なるべくお互い干渉せずに生きようとする。そうすることで、余計なトラブルを避けることも出来るし、これからの人間
同士の付き合い方ともいえる。俗にいう恥の文化、これは象徴的な例の一つだろう。
タイの場合はどうか。彼らは、誰にでも声をかけてくれるし、それは外国人であっても変わりはない。そのため、出会
った人とは知り合いで終わらず友達となり、みな仲がいい。当然大学内での友人数は日本の比ではなかった。

2人で食堂に入ると、次々と彼女の友達が話しかけてきた。そして、特に仲のいい3人と一緒に食事をした。自分が日
本からきた大学生であること、タイに来た理由などを話すと、彼らは初めて見る日本人に興味を示し、いろいろな質問
をしてきて会話が弾んだ。会話の途中カオサン通りへの行き方の話になると、皆が声をそろえていう。「あそこは危険
なところだ。そこに行くくらいならここに泊まればいい、自分達の寮に泊めてあげる」と。
まるでドラマのような展開。せっかく出会った人達と仲良くなりたくて、もっとタイ人の事が知りたくて、喜んで好意を受
け入れ、大学での生活が始まった。

2日目午後   カセットサート ユニバーシティーにて

午後からは、食堂で出会った男子学生3人のうちの2人に大学を案内してもらった。国立大学であるこの大学は半端
な広さではない。校内にバスや車も走り、結局最後まですべてを見ることは出来なかった程の規模。主な建物を案内
してもらった後、サンダルと短パンを探しに、買い物に付き合ってもらった。
どちらも暑さをしのぐためには必須アイテムといってよく、どうしても手に入れたかったもの。学校の外に出て近くの商
店街を物色。短パン、そしてバスタオル用に大きめタオルも買おうとした時、彼らが一言「自分のがあまってるから貸
してあげるよ」。結局買ったのは、サンダル40バーツ一品だけだった。


左から、パング・hiro・バス。午後の大学案内時に撮った出会い初日。



彼らに対して尊敬してやまないこと。親切なことを普通にやってのける。自分なら、相手の喜びそうなことを頭で考えて
から実行する。そこには、人が喜ぶことで自分を満足させるという自己本位な部分がある。ところが、彼らはそんなこと
を微塵も考えていない。
一度こういうことがあった。自分が先にベッドに入り、扇風機の首が回るように設定して寝ていた。しばらくして友人が入
ってきたのに気付いたが、そのまま目を閉じ横になっていた。彼は何をしたか。扇風機を固定し、寝てる自分にだけ風が
あたるように設定したのだ。
暑さというものは寝るまでが暑い、寝てしまえばそう感じないものなのに。どこからから見ても、自分は寝ていた。相手
の状態に関わらず、常に同じ行動をとる。小さい頃から言われ続け、何も見返りのない結果を散々体験し、すでに否定
していた言葉を彼は実践していた。
人の本音と建前を見るのは、嫌いじゃない。特にいい人と言われる人には、どこか裏があるのじゃないかと観察したくな
る。自分へのコンプレックスからくるのかもしれない。彼らはそういうレベルを逸脱していた。

ここで、2人の友人の紹介しておこう。パングとバスだ。彼らには、大学での生活のほとんどをお世話になった。パングと
は毎日の食事から洗濯、暇潰しと多くの時間を一緒に過ごした。だいたいいつも入り浸っていたのも彼のドミトリーだった。
バスとはなぜか妙に気があった。彼といるといつもハイテンションで、ばかなことを言ったり、時には真面目に語り合ったり
と、心からの親友といえる仲になった。パングはサイエンスを、バスはフォレストリーを学んでいて、年は18、大学一年生。

こうして、新たな友人と出会い、いろいろなことを感じながら2日目を終えた。

洗濯場でパングを。洗剤借りて毎日洗ってたもの。


学生寮

大学寮の宿泊した部屋。
リンク(出会った友人達と大学生活)


イーサンクラブ    2/12

3日目の午後、授業を終えたパングのドミトリーの一員・大学3年生のポックに連れられ、彼の所属するクラブに遊びに行った。
イーサンとは、タイ北部地方をさす言葉。農業を主に置く大学の特徴か、ここの生徒は北方出身者が多い。そこは伝統楽器の
演奏をおこなうクラブで、部室に行った時にはすでに多くの人で賑わっていた。そこでポックが皆を紹介してくれ、自分も自己
紹介をした。
ここでは、過去の戦争のこと、日本の軍事力や経済についてお互い熱い討論などもしたが、なにより良かったのは、日本語を
勉強しているという大学2年生トォを中心としたグループと仲良くなったこと。トォはしっかりしていて、お互いに認め合えるよう
な存在としていつの間にか仲良くなり、自然とグループの一員みたいに輪の中に入っていた。その晩は、彼らと一緒に夕食をと
り、翌日一緒にバンコク市内観光に行く約束をして、別れた。
結局その夜は、翌朝の5時に待ち合わせということもあり、目覚し時計を借りさっさと就寝した。

          
左写真:イーサンクラブの部室にて。
むちゃむちゃきれいな子がいたから、お願いして写真撮らせてもらったわけで。
右写真:仲良くなったイーサンクラブの友人達ととった夕食。左手前が、トォ。



ワット・プラケオ    2/13

朝5時の待ち合わせ、4時半に起きて、シャワーを浴び髪をセットして待ち合わせ場所に行った。
冷静に考えれば朝5時に集合してどこ行こうというのか、しかしその時は別段不思議に感じなかった。部室の前で
待っている間、どこからともなく蚊が集まってきた。誰も来ないまま、約束の時間を数十分経過。5分遅れたのがま
ずかったのか、それとも時間を聞き間違えたのか、結局一時間待って、諦め部屋に戻った。
目を覚ましたバスが部屋にいる自分に質問、「観光はどうしたの?」と。「勘違いかな。」、力なく答え再び床に就いた。

朝11時、パングの部屋でのんびり過ごしていると、やってきたのはトォ達。すぐに「朝待ってたのにどうしたの?、
AM5時って言ってたよね?」と確認。彼らは、そういう間違いをしたのかという感じで笑い出すも、理由は結局分か
らなかった。ただ、なんとなくAM11時の別の表現であったことだけは確かのよう。
そして、今から出かけようということになり、楽しみにしていた予定の復活に素直に喜び、急いで出かける準備に取り掛
かった。

総勢10名での観光は楽しいもの。行きはタクシー、5人づつの相乗りで。船乗り場に到着後、船に乗り換え、水上を移
動。普段使わない乗り物に乗れた嬉しさと、彼らと出会えたから利用できた喜びをかみしめ、観光名所を見送りながら
目的地へ向かった。


友人達との船での移動


街の中心にあるワット・プラケオは、バンコク一の観光名所であり、建物も素晴らしいの一言。入場には外国人のみ有料と
いう制度があり、タイ人になりすませば素通りできるとの彼らの誘いを受け、その場限りのタイ語の練習をするも、結局気の
小さい自分は、素直にチケットを買って入ることにした。

とにかくタイのお寺は豪華。建物自体が金で輝き、日本ではお目にかかれないような代物ばかり。まわりの壁には、物語が
描かれていて、その内容一つ一つをトォは英語で解説してくれた。これはさすがに驚いた。はっきり言って、知らない単語が
多くてよく理解できなかったが、歴史を英語で説明するとは。付け焼刃的な日常英会話程度の自分に、少々恥ずかしさを感
じた。
この大勢での行動は、皆でわいわい非常に楽しく、いろいろ話もできたし、旅の大きな思い出になった。

ワットプラケオ
ワットプラケオ隣の旧王宮で総勢10名の記念写真。
リンク(観光風景)



ビアガーデン

この日の夜は、バスやその友達と皆で酒を飲みに行こうということになり、学校前のビアガーデンに繰り出した。
朝・昼・晩といつも学食で食事をしていたから、ガイドブックに載っている有名タイ料理が食べたくなり、シンハービールと共に
ソムタムとトムヤムクンを注文。どうしても食べてみたかったこの二品をおかずに、タイのビールを流し込んだ。本場屋台の味
ソムタムは、辛くて食べれたものではなかったが、記念だと思って奮闘。トムヤムクンも辛さで正直味のほうはよく分からず。
酒があまり強くないながら、すすめられるままジョッキ2杯半口にし、ほろ酔い気分でふらふらとしていた。

この日の夕方は、飲みに行く前からバスと2人でメモ帳片手にお互いの価値観について、いろいろな分野で話し合っていた。そ
れは、場所を移動してもやむことはなく、ハイテンションで盛り上がりながら、宗教や大学などについて真剣に熱く語り合った。

彼は自分の国や宗教に誇りを持っていた。タイでは国民が国王ラマ9(プーミポン国王)を尊敬し、王室に誇りを持っている。自
分達が今いるのはそういう歴史のおかげだとよく知っているからだろう。国というのはそうあるべきである。王室という同じ制度を
持っている日本では、根本的な敬うという気持ちが欠けている。僕達は教育の過程で、天皇は戦争を起こした原因と習う。彼ら
は、僕達と同じ人間に過ぎないと習う。戦前生まれじゃないし、ことさらそんなことを強調されても、天皇をけなしているとしか受
け取れない。

当時の状況、日本の追い詰められた立場、資源のない日本が将来生き残るための条件を冷静に考えてみれば、答えは明快。
アメリカに、お前達は戦争をしたから悪いと言われ、皆が信じ込んで反省している。日本の間違った人達が、権力のある人達が
頭を下げることに快感を覚え、反権の象徴として日本を追い詰めている。いつまでも成長の無い韓国人がそれをネタに国をまと
めようとしている。

僕達はそろそろ気付かなければならない。僕達は何も反省する必要はないのだ(少なくとも諸外国に強要される覚えは無い)。
今の平和国家日本で過去のことを検証しても意味がない。誰が戦争を起こしたのでもない。国民が戦争を盛り上げていったの
だから。テレビで偉そうに語る老人には、いまさら被害者面するなと言いたい。むしろ亡くなった自分達の仲間を誇りにすべきだ。

僕達の今があるのは、戦場に戦いに行った祖父たちのおかげ。靖国神社への閣僚参拝は、毎年さも悪いことのようにテレビで
報道される。国のために命を投げ出した人達へ、当国の首相の敬礼さえ許されない国。くさっている。

余談ではあるが、今の状態の最も大きな加害者を上げれば、マスコミである。日本人はなんでも影響されやすい。すぐにマスコ
ミを真実として受けとめ、信じ込んでしまう。戦時中から、戦後の日本人の考え方はマスコミによって形成されているといっても過
言ではない。彼らは、話題性や視聴率ということを原点に、大げさに報道したり、計画的に話を作り上げる。朝日新聞によって作り
上げられた従軍慰安婦問題もその一つ。日本のテレビチャンネルの少なさ、同一新聞を読む割合の多さが原因なのだろう。

日本をよりよくするための意見なら謹んで受け入れよう。一部の人達の、日本を陥れるための意見など頑として拒まなければなら
ない。そういう意味で、皆が一つにまとまっている彼らの姿はうらやましかった。いつか日本がこういうふうになることを切に願った。

午前2時を回り、締めの時となった。
バスが、「明日はバレンタインデーだから好きな子のドミトリーに行く」、と嬉しそうに言ったのが印象に残った。

ビアガーデン
大学前スーパーの広場に夜でるビアガーデン。
手頃なビールとタイ料理を味わえる。
リンク(盛り場の風景)



バレンタインデー    2/14

今日は、昨日遅く寝たので10時30分頃起床。目が覚めるとパングの部屋の掲示板にGood night to Hiroの文字が。
なんか嬉しく、思わず写真撮ってみた。




いつもは、授業のため8時前に起きる学生と一緒に起きていたが、今日は大学が休み。部屋に来た友人・大学4年生のウィー
と食事をとり、彼に大学を案内してもらうことに。ウィーは、なぜか僕をしたってくれていたから、気軽に付き合えて、何度か二人
で食事をしたりしていた。今日は予定が無く暇だったので、喜んでついて行った。

彼は、自分の勉強しているフォレストリーのファカルティーに連れていき、中を見せてくれた。寮から、学部の建物まで行くのが
結構遠いので、自転車に2人乗りをしての移動。その後、近くにある彼の所属するクラブに行きくつろいでいると、思わぬ方向に
話が広がっていった。

道で出会った、彼と同じクラスの女の子のドミトリーに行くことになったのだ。タイでは、男子寮と女子寮は別々に別れていて、気
楽に入れる男子寮と違い、女子寮は高いフェンスで仕切られ、入り口にはゲートと監視員がいるという堅甲なセキュリティー付き。
この日バレンタインデーは、男子が女子寮に入れる数少ない機会の一つだと言う。皆から散々お前はラッキーだと言われ、喜ん
でついていった。

女子用のドミトリーは5人用で、整頓されていて非常にきれい。彼女のドミトリーに男女12人が集まり、たくさんの食料と飲み物を
囲んで宴が開始。酒など無いが、異国人という長所を生かし、盛り上がる会話に交じっていくつもりだったものの・・・。

大事なことを書き忘れていたが、この日の体調は最悪。昨日飲んだビールに入っていた氷でやられたんだと思う。腹の調子は悪い
し、昨日食べたスパイシーフードの数々で、胃がひくひくしていた。すでに2回トイレに駆け込んでいたが、どうにも落ち着かない状
態で、食物にもろくに手を付けれなかった。

当然気乗りもせず。盛り上げたかった女の子との会話も、一人沈んで最悪の空気をもたらすことに。そう言えば、あれ以来彼女達
からの誘いが無いところを見ると、よっぽど酷かったと見える。
ドミトリーに帰ると、どうもバスがうまくいかなかったらしく少し落ち込んでいた。朝早くから花を持って彼女のところに行ったらしい。
彼の純粋なところもまたいい。

バレンタインデー
バレンタインデーに女子寮にて
リンク(バレンタインデーの一日)



友人

タイの学生には友人がたくさんいる。当然彼らの友人を紹介されるから、瞬く間に友人が増えていった。移動するたびに友人
が増えていくという感じだ。バスといるといつもハイテンションでばかやってたから、紹介された人達は、日本人がこんなにお
もしろい奴だとは思わなかったとよく言っていた。やはり、日本人は真面目という印象があるようだ。

当然人間人それぞれに性格があるように、いくら環境に左右されても、根本的な部分は変わらない。タイ人の寛容さで、多く
の人に受け入れてもらったが、当然あまりあわずにほとんど話さなかった人もいた。自分がもともと偏見など持たずに人間同
士として付き合うので、多くの外国人とも仲良くなれたのだろう。

自分が一番危惧したのは、日本人が皆自分のような人だと誤解を受けること。いつも、「僕は僕だから」と付け加えていた。
バスが、いつか日本に行ってテクノロジーや経済を勉強したいと言っていたが、正直来てほしくないと思った。

日本人は異物を取り除こうとする。普通と呼ばれるものからずれているもの。皆、普通からはみ出さない様に努力する。日本
人は、子供から大人まで、平気でそして露骨に異物を取り除く。いじめは典型的な例だろう。いじめは、もともと人間の本能な
のだから子供の段階では仕方ないし、それは教育と、「皆と仲良くなる」という指導の転換で、軽減できると考えている。ただ理
性を持った大人も平然とやってしまうのが、この国民の怖いところだ。

アジア人、特に有色人種が来たらどうだろうか。必ず取り除こうとする人達がでてくる。外国人の流入を開放していない我国で
は、優秀なアジア人の存在を知らないので、どうしても=マフィア(何をするかわからない)のような印象が強いことにも問題は
あるが、日本人の恥ずべき点の一つ。日本では、東京などお互いに干渉しない地域以外での外国人の生活が可能となること
は難しいだろう。

宗教

タイといえば仏教である。
国民の9割が仏教徒といわれ、上座部仏教といわれるだけあって、日本と違い皆が真剣に取り組んでいる。そして、仏教徒で
あることに誇りを持ち、生活においても実践していることが多かった。電車に乗って足の悪い人が物乞いに来た時、これがブッ
ティーズのすることだといって、僕にお金を渡し、彼の持つ空き缶に入れるようにいってくれた。彼らの親切さの根本も、小さい
頃から教えられた仏教徒としての教えにあるような気がした。

宗教に対する私の考えは、宗教とは、人の理性を作り上げる過程であるというものだ。キリスト教、イスラム教、仏教と呼び名
は違っても、人が世の中で生きていく過程で、何をしてよくて何をしてはいけないかを語り継いだものということに違いは無い。
こういうことを小さい頃から教えられることで、自分の中にはどめ(理性)ができる。現在の法律として残っているものは、昔の宗
教の教えの一部にあたると考えている。その土地や、人々の考え方の違いで、より受け入れやすいものとして変化し、それぞれ
の宗教の名前で現在まで伝わっているのだろう。

そのような根本的な考え方を受け継いでいる状態と、日本のように形式だけが受け継がれている状態では、その後の人格形成
に大きな差が出てくる。外国では、信仰宗教がないと低く見られる(人格を疑われる)というのもこのへんにあるのだろう。


タイの朝

タイの朝は快適だ。もともと緑や池など自然に囲まれたこの大学では、フレッシィーな朝を迎えることが出来る。タイは、暑いという
印象があるが、それは昼間のこと。朝は非常に涼しく、寝床にはタオルケットが必要だ。やはり、夜の気温もそう高いことはなく、扇
風機さえつけておけば、涼しい風が入り、快適な夜を過ごすことが出来る。
しかし、昼間の暑さは半端ではない。到着した当時こそ新鮮さもあり嬉しかったが、10日目を過ぎると夏ばて状態に陥り、逆に辛く
なっていった。だんだん気温も上がっていき、真剣にどうして人類はこんな環境に文明を築いたのかと悩んだ。いろいろなことがあ
り、体力を消耗したこともあったが、暑いというのも考えものだと思った。

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