旅計画 新潟市 弥彦村 会津塩沢 長岡市
top
トコトコ越後旅日記 
会津塩沢
長岡市へ

10時05分弥彦駅発、10時40分に東三条駅に着く。
ここから信越線に乗換え、10時52分東三条駅を発し、11時18分長岡駅に計1時間13分の移動。
相変わらずのんびりくつろぎの移動で、購入した温泉饅頭を食べつつ、長岡での予定を考えつつの。

駅について、緑の窓口へ。
そう、今回の旅の目的地の一つである、会津塩沢への電車の利用方法を知るために。
明日朝を予定するも、もともと会津塩沢に行く只見線が1日3本程度しかなく、朝の便だと長岡からは間に合わないという。
昼の便が12時33分発との情報を得、時刻表を開いて帰りの便との時間を見る。
これまた調度良く、到着1時間後に反対列車がくるようになってて、いや理想的だと。

着いた早々は長岡観光を考えてたから、会津塩沢行きは即決せずしばし検討。
長岡の食事処事情を調べようと本屋に行き、情報を集める。
会津塩沢情報は新潟ガイド本に載ってないから、ついでに福島県版ガイド本を見て、その目的地の詳細を知る。
いざとなればレンタカーでとの思いもあったけど、只見線で見れる電車からの風景も捨てがたいとの思いも強く、出発30分前に決断。
昼は食べる時間ないから、急いで駅弁を買って電車に乗り込むことに。



・・・・・
会津塩沢へ

長岡到着1時間たらずで、早くも脱走。
会津塩沢チケット(1620円)を購入し、12時33分に出発。
13時9分、旧会津藩領60里越えの出発地としても有名な小出(こいで)に到着し、只見線に乗り換える。
13時17分に小出を出、14時45分までの計2時間12分の電車移動を楽しむ。

小出までの信越線の道のりは、横を流れる信濃川と稲の緑に染まった平野を見ながらの移動で、心地いい自然のよさを満喫できる。





・・・・・
只見線

小出から乗り換えの只見線は、小出から福島県会津若松を結ぶ線。
車窓からは破間川(あぶるまがわ)の渓谷をはじめ、手付かずの自然が見れ、本当に心休ます風景が流れる時間を過ごせる。
ゆっくりおりて見てみたいって気もあるけど、一度おりたらもう先へは進めなくなるから、諦めててね。
只見線乗車後、しばらくたって長岡もち米を使ったおこわが売りの駅弁「まいたけ弁当」を食べ、一息。
眠くなったら軽く寝て、思い立ったら本を読み、集中きれたら外の景色を眺めるという、まさしく贅沢な時間を過ごせて。
あー、これが電車旅行の醍醐味なんだと、一人実感。
青春18切符で移動する人の気持ちが分かったよ。移動の時もまた旅なんだね。

ちなみに長岡駅本屋で、稲川明雄著「河井継之助」って本を購入してて。
やっぱり地元の英雄だから、予想通り題材にした本も多く、何冊か見比べて購入。
違う角度から彼を見たかったのと、フィクションを除いた事実を知りたかったから、そういう関連の本をね。
旅を通して読み終わり、いい暇つぶしの道具になってました。

     


トロッコ列車も走ったりする景勝地見学路線だから、電車は結構人が多い。
4人席を確保し、足を伸ばしのんびり過ごせたけど、どの席にも誰かしら座ってたからね。
会津塩沢到着までの道のりを、写真でおう。

        
左: 魚沼地方も沿線沿い。うまい米ができんだろうなと。
中・右: あちこちで渓谷を見ることができる。ぼーっとして見逃さないように、ちらちら外を気にしつつの車内だったな。



本当に田舎電車で、田んぼの中を走る姿がよくにあってたよ。



・・・・・
会津塩沢

予定通り14時45分会津塩沢到着。
会津との名前から察することができるよう、ここはすっかり福島県でね。
さらに2時間半程度行くと、会津藩の城があり、現在も磐梯山・猪苗代湖を抱える会津若松にでる。
何が悲しくて、時間の制約ある旅でよその県まで?なんて気もするが、そうここには「河井継之助記念館」があるのよ。

会津塩沢と河井継之助との由縁は、北越戊辰戦争で長岡城奪還を果たし新政府軍と戦う最中足に銃弾を受けることからはじまる。
総指揮の継之助が後方へ退くと彼に頼っていた長岡藩軍の形勢は不利となり、再び長岡城が新政府軍にとられることに。
長岡での戦いを諦め、会津に逃れ再起を図るため、千数百名と共に長岡から悠久山を越え栃尾へ退き、そこから八十里越と言われる会津へ向かう山道を移動する。

八十里越との名称は、会津へ抜ける栃尾−只見の道のりが実際は八里の距離だが、その行程が山中の非常に険しい道のため10倍の八十里歩くほどの労力がいるというのが、その理由。
人一人通れるか通れないかの細い道と山の急勾配、体半分浸かるような沼も越えながらの難渋を極めた山越えだったみたい。

その道のりを負傷した継之助は、簡易担架に乗せられ運ばれたんだとか。
八十里越を通過し、山の出口となる町「只見(ただみ)」に着き、傷の手当てを受けた。
会津藩士をはじめ同盟軍が会津城に向かった移動したことで、長岡藩軍も後を追う。
負傷した継之助は、只見で幕府医師で蘭学の知識のある松本良順の治療を受けるが、既に傷が悪化し熱が引かずかなり悪い状態だったとか。
良順のすすめで会津若松に向けて出発、途中塩沢、矢沢宗益宅に投宿した。
只見から数キロ離れたとこにある会津塩沢で体調が悪化し、医者の下で養生するも、静かな眠りについたという場所。

当時の村はダムに浸かり、それを機に湖の上に記念館が建てられ、あわせて散骨を集めて作られた墓も同じく移転。
墓は新政府軍に誰のものか分からないよう名前を刻まなかったというから、当時の状況がなんとなく見えてくる。

この地を司馬遼太郎が訪れ、風光明媚な塩沢が継之助の眠る地に最もふさわしいところであるとして、「山水相応蒼龍窟」という言葉を残したとは、余談かな。


・・・・・
駅から記念館までは、徒歩10分の距離。
何も情報持たずに行ったから、看板もないこともありどっちにいったらいいのかわっぱり分からず。
やはりこの駅でおりる変わり者は、自分一人だったしね。
時間もないし、早く着かなきゃとその辺歩いてたばあちゃんに場所を聞き。

いや、田舎のばあちゃんは親切だし大好き。
懇切丁寧に教えてもらってね。まあ、話はよく聞き取れないし、時間もないしで適度に切り上げ礼を言いつつ去ったけど。
ダム湖もきれいな緑色で、人も親切、いいとこだなと思いつつ記念館に向かう。

     



・・・・・
河井継之助記念館

この地に、この記念館があることを知ったことから始まったといっても過言ではない、新潟旅行。
思った以上の時間がかかったけど、待ちに待ったこの地、そしてこの記念館に着いたよ。
とまずは、記念館入口で一枚。




入口で記帳し、入館料300円を払い中へ進む。
入った先に掲げられた、写真撮影禁止の看板に少々引きつつ、つちかった盗撮技術を駆使し撮影に挑む。
入ってすぐ横にあるのが、江戸期の古い木造住宅。(左写真)
そう、これが継之助が治療を受け、そして終焉の場所となった、只見町塩沢 村医 矢沢宗益宅。
ダム建設による水没後、この記念館に移されたものである。
継之助が治療を受けた部屋(右写真)もしっかり残っていて、ちょっと感慨深かったな。

     


そして継之助の銅像(左写真)もしっかりと。
彼の雰囲気が見て取れる。
そして、知る人ぞ知る「ガトリング砲」(右写真)ね。
河井継之助が書いた文書も残る。継之助はかつて実在し、そして長岡の地で筆を持ち文書を書いた。
こう思うと人間って本当に不思議よね。本の中の英雄がまさに存在し、そしてその証が時空を越えてここにしっかりと残る。
同じようにものを考え、悩み、そして生きた人が、百数十年前に同じ場所に存在してたのよ。
わかってもらえんかな〜?

ちなみに、ガトリング砲とは・・・
1682年米国で南北戦争の最中に発明した最初の機関銃で、1分間に200発もの弾丸を発射できる当時最強の兵器。継之助は、南北戦争が終結し不要となったガトリング砲を武器商人スネルから2門1万両で購入し、日本に3門しかなかった同砲のうち2門を手に入れることになる。
長岡城攻防戦では、継之助自ら射手として政府軍に対し、大手門の土手を盾に乱射したと伝えられている。
そして、記念館に所蔵されてるガトリング砲は、当時使用された機種(1868年型)を最も忠実に再現したものになるとか。

この圧倒的な火力を根拠に北越戦争に踏み切ったとの恨み節も残るとかで、その後の辛酸をなめた方々にはいろんな思いもあるだろうけど、個人的見解は、所詮は兵器の一つに過ぎないし、そんな思いだけで戦争する人じゃないよと、これまでの知識で推察するとこ。

なにはともあれ、この時代機関銃は存在してたということを知ったのが、この話がもと。
かつての日記のラストサムライ談話で、機関銃が存在したのは日清戦争当時からで、あのストーリーに疑問あるなどと述べたことは、ここで訂正。少なくとも題材である西南戦争当時に、あれほど精巧な機関銃が何門もとは、まだ認めたくはないけどね。

        


ガトリング砲の後ろは、当時の戦況を地図で時系列に説明してくれる、設備がある。
これはその戦況をイメージできて、かなりおもしろかった。
時間が少なくても、ぜひ見ていってほしいとこ。
館外には、河井継之助終焉の地の碑もあったり。(下写真)
離れには、塩沢の地名のいわれ、山塩資料館がある。
ここは、古くから製塩が行われていたとこで、江戸時代には塩焼小屋が6軒あったとかその辺の説明がね。




・・・・・
ゆっくり観覧してたら、時刻15時40分をさす。
帰りの電車は、16時00分だから、急げばお墓に参れるでしょうと探しに行く。

河井継之助は、荼毘に附された後、遺骨は長岡に送られ長岡市内の栄涼寺に葬られている。
ここ塩沢医王子の場所は、荼毘の後で拾い残された細骨を村民が集めて建てたもの。
当時官軍の目が光っていたため、文字は刻まず、形式も祠の様式にして官軍の目をごまかすという細かい配慮がはらわれたものというけど、この墓を見つけきれず、諦める。
なにせ電車の時間が迫ってるし、長岡の墓に行くつもりってこともあってね。

万が一にも早めに電車がきたらしゃれにならん、これに乗り遅れたら長岡に帰れないからね。
10分前には駅に着きたいと、駅に向かって歩き始める。

行きは、ダム湖沿いの車の通る大きな道路を通って記念館まで来たんだけど、この道熊蜂が何匹も飛び交ってるのよ。
これには本当に参った。
道沿いの木に巣があると見え、何匹も道を横断し、見事道路途中で鉢合わせ。
目の前数十センチを挟んで、対峙したのさ。
はー、もう参った。昨年同じくスズメバチ系の熊蜂に刺され、次刺されたら・・・とは、忠告を受けてること。
前刺されたのと同じ奴が、目の前で目と目をあわせ呼吸を読んでるのよ。
こいつは敵か見方かってな感じで、見定めてるのか数秒お互いに静止。
蜂ははたけば死ぬってのは、前回の経験で得た知識。
やられる前にやらなきゃいけない、でも相手に敵意がないのに下手に攻撃して無駄な争いを起こすのは最悪。
一気にお仲間がやってくるのが見えてるからね。
記念館までの数メートル、何度そんな見えない格闘を繰り広げてたことやら。

もうあんな思いは嫌ですと、帰りは違う道を選択。
裏道を通ると、蜂もいなくて一安心とね。
よくこんな蜂いるとこで生活するよと、つくづく思う。
いや、かつてはそんなに蜂は嫌いじゃなかったのよ。こっちが敵意を見せないと攻撃しないとしってたから、蜂が近くにいてもそっとしてやりすごしてた。ただね、一度刺されてからは話は別で。万が一にも油断できなくなって、もう小心の限り。
お恥ずかしいが、これからの時期は、トンボや虻、とにかく空飛ぶ小動物に度々警戒して過ごす日々が続いてね。
もう田舎の山奥にゃ住めない体になっちまってね。

なんて思いをして、駅方面へ向かう。
ちょっとした遠回りで時間を食ったのもあるけど、刻々と迫りくる出発時間に少々焦り。
いざ駅に向かうと、駅に向かう小道の入り口を忘れてね。
ここかなって思うも周りに駅なし、そもそも駅が景色に埋もれてはっきり場所がつかめない。
時間がないのもあって、ますます焦って、まあよく走ったよ。
ようやく見つけて思わず納得、こんな駅じゃそりゃ周りの田んぼに埋もれるわさとね。

     
すっごい景色になじんでてね、一見気付かず。


     
線路の先が草に隠れてんですけど。う〜ん、千と千尋の・・・みたくない?



・・・・・
長岡市へ

予定通り16時00分に小出行き電車に乗る。
またまたのんびり長岡駅までの2時間30分の道のりをね。


    
単線なんよね、駅ですれ違います。
変わらずの平野の景色は、何度見てもいいもんだね。





長岡市泊


2泊目は、長岡駅から数分のビジネスホテル「崇徳館」に。
大風呂(3,4人が一緒に入れる程度)付きなのがこの宿のうりで、素泊まり1泊4200円はかなりお得。
2日目、3日目を長岡で過ごすつもりだったから、必然的に。
いくつか駅周辺にビジネスホテルあるけど、ここが一番きれいで割安感あるとの評判だった。
ロビーで無料インターネットができるのも嬉しいとこかな。





・・・・・
夕食

ネットでも調べたし、本屋でもみたけど、なんか食べるとこあんまりないのよ。
長岡初の洋食屋なんていわれても、長岡まで来て洋食食べてもねって感じで。
居酒屋に入るの寂しいもんだし、結局駅ビルの「へぎそば屋」へ。

店名は「長岡小嶋屋」で、皇室献上の経歴もある越後を代表するへぎそばの店ってのが特徴。
へぎそばは、かつて六日町で食べたことあるから今回はいいやと思ってたけど、他に長岡を代表する食べ物なかったからしかたなし。
結構疲れたしお酒はいいやと、天へぎ(天麩羅とへぎそばのセット)1627円を注文。

久々食べたへぎそばはおいしく、ちょっと驚き。
へぎそばの食感でよく使われる、麺がつるつるしこしこって表現そのままで、おろしたてわさびとあい、こりゃうまかった。
もうちょっとくせがあるような気がしてたけど、勘違いかな。
いや、有名店のこだわりの味だからこそ、よりおいしさを引き出してたとも。
ちょっと値段は張るけど、満足の一品でしたよ。

そうそう、下写真のわさびの隣にある白い粉末何か分かる?
砂糖なのよ。
てっきり天婦羅用の塩だと思って、なんか甘い天麩羅だなとつけながらしばらく食べてたんだけど、何かおかしいと気付いて。
帰り際店員さんにあれどう使うんですか?って聞いたら、砂糖をすりおろしのわさびに混ぜると辛さがましていいんだとか。
これって常識?。てっきり天麩羅に砂糖ってのが北の文化と思ってたんだけどね。うーん、奥深い。

     


さーてさてはて、2日目も無事終了。
ホテルでゆっくり休んで、さて3日目は長岡市内を散策しましょうかね。