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トコトコ越後旅日記 
長岡市
3日目の行動開始

ホテルを8時30分にチェックアウトし、駅に向かう。

3日目の目的は、長岡散策。
長岡市には、かつての長岡藩時代の遺構がいくつかあって、それを見て回るのが第一の目的。
1日時間あるから、ついでに長岡の周りの施設を見るのも狙ってること。
時間的制約もあるし、バスでの移動が難しいとこもいくつかあるから、長岡市内はレンタカーで移動しようとは前から考えてて。
行きたい場所の紹介がほとんどないガイドブックなどあてにせず、ナビがあればなんとかなるでしょっていう期待も込めて。

新聞片手に、マックで朝食エッグマァフィンセットを食べる。
3日目となると肉体的な疲れもたまり=精神的な気力を奪い、どうも行動が重い。
なんかめんどくさくなってきたな、このままのんびりしてようかとそんな考えが頭をよぎる中、いやここで動かんと絶対後悔すると言い聞かせ、無理に体を動かし、10時に駅前のJRレンタカーへ入る。
移動ができればいいからと、軽自動車を12時間5770円で借り、行き先を検討。

長岡から新潟まで、電車で1時間、新幹線で25分。
19時の飛行機を考えると、1時間前には空港に、となると17時30分頃には新潟駅に、となると16時過ぎには長岡駅を出たいなと簡単に計画をたて、さて散策開始と。



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悠久山公園

まず一の目的地は、悠久山公園。
長岡城から東へ5キロ程度行ったとこに、小高い山が存在する。
この悠久山は、1781年蒼紫神社が建てられて以来、神苑として長岡藩から保護され、今も「お山」と呼ばれ親しまれているとこ。
桜の名所でもあるってことだけど、季節が違うからさして興味なし。
ここに行く目的は、園内に3層4階の城を模した造りの建物、長岡市郷土資料館があり、河井継之助をはじめ近世〜近代に活躍した郷土出身の先人の業績や戊辰戦争の歴史的資料を展示しているから。
4階部分からは長岡市内を一望できるというし、これを楽しみにね。

ナビの操作法をようやく覚え、それでも公園への入口がわからず何度も迷い、大いに苦労して悠久山に着く。
車の移動はこの道違ったかな?と思ってからなかなか引き返せないから本当に苦労するよと、いつものことながら少々愚痴。
さてさて、悠久山公園の案内をさっそく。

駐車場から園内をしばらくあるくと、蒼紫神社がある。
1781年に建立された神社で、日光東照宮を模したつくりで、完成までに12年を要したとか。
北越戊辰戦争、長岡空襲と2度の戦火から免れ、現在の本殿は当時のままのもんなのだとか。
確かになかなか年代物の建物でと、一枚写真を撮るも、そう時間ないからお参りすることなく通過。

     


山の形状だけになかなかきつい坂道で、いい運動だなと、中腹にある博物館まで向かう。
道の途中に、河井継之助の碑なんてものがあるのも嬉しいとこ。
長岡市教育委員会による継之助解説を載せてみる。

河井継之助の碑
河井継之助は、名を秋義、蒼龍窟と号した。人となりは豪胆にして、機略の持主であった。
陽明学を修め、古賀茶渓・斉藤拙堂らの門を経て、備中松山藩の山田方谷に教えを受けた。幕末の長岡藩を改革し、理財・行政等に才をふるった。
北越戊辰戦争では、長岡藩兵を率いて、多勢の西軍を相手に縦横無尽に戦い、負傷して慶応4年(1868)8月6日、42歳で会津塩沢に没した。

そこからしばらく行った先に、長岡市郷土資料館がある。
ようやく着いたと一安心し、入口に向かったとこで気付く。
「本日休館」の看板。
・・・・。
まじかよ。ここは結構楽しみに来たのにと、もうがっかり。
休館日月曜だって、まったく図書館じゃないんだし、週末絡めた旅行客がいることがわからんのかいなともう市の方針に大いに不満。
まあ、そんなこといったらいつも休めないだろうし、所詮わがまま、運が悪いだけかなと納得させ、再び山をおりることに。
景色は抑えときたかったけど、これも他でも見ることができる。資料なんて他でも見てきたしまあいいさと気分を変えてね。
本当なら障害物なく見えただろう市内の景色を、入館できない建物の隣で写してみました。わかるかな?

      



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長岡城界隈

時間をかけた割りに収穫の少なかった悠久山公園を後にしたのが、12時前。
16時まで残り4時間と考えると、想像以上に時間がいない。
真剣に焦りだし、行き先を絞り次なる目的地を考える。

まず問題は、行きたい場所のだいたいの場所はわかるけど、詳細な地図がないため行く度にかなり迷うということ。
ナビはまったく役に立たず、もう悲しい限り。
長岡版ナビじゃないから、歴史施設で探しても何にも表示されなくてさ。
結局、効率的に動くためにまず情報収集をしようと、出発地であるJR長岡駅構内の観光案内所に向かうことを決意。
レンタカー屋に車を止め、全く無駄な行動だなと、再び駅へ。

観光案内所に行き驚き、まさに求めてた情報がてんこ盛りなのよ。
長岡城の跡地情報、河井継之助生誕地・お墓等、そうこの情報がほしかったのよというものがいく種類ものパンフレットで紹介されてて。
さっそく数枚持ち出し、隣の喫茶店でジュースを飲みつつ、しばし検討。
そして、そこでわかったこと。
長岡城界隈は、車じゃなく歩いた方が早いなと。
まったく不本意ながら、車を捨てて、徒歩散策がここから始まることに。

まず長岡城跡を。
長岡城本丸跡の場所は、まさにJR長岡駅そのもの。
せっかくの城跡をなんとももったいない利用と思うも、これが敗戦国の悲しいとこよね。
戦場となった戊辰戦争で、城・城下町が焼き尽くされその後廃城、明治31年長岡駅が開業したという流れになる。
ここに城が、ここ大通りで藩士が登城してたんだなって想像するだけで、個人的には結構楽しめよかったけどね。

     


続いて、二之丸跡の碑
本丸跡から、大手通りを数十メートル行ったとこに、石碑が建つ。
あくまで石碑だけだから、ご容赦あれ、
ついでに、大手通りの先から本丸方面(長岡駅)の景色も撮っときました。

     


そして、古地図を見ながら気づいたことだけど、昨日泊まったホテル「崇徳館」の場所は、長岡藩藩校「崇徳館」があった場所みたいで。
藩校と同じ名前使って問題ないんかなって思ってたら、そういうわけだったのね。
城の少し外れになるから、駅から距離があるわけか。うん、なんか一本線でつながった気分で心地よしだな。



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山本五十六記念館

続いて、河井継之助邸跡を見に行こうかと、移動開始。
時間もないけど、せっかく長岡来たんだしと、途中にある山本五十六記念館に立ち寄る。
ご存知、山本五十六といえば太平洋戦争時の日本海軍の名将、北越戦争で戦死した長岡藩家老山本帯刀の養子として家を継いだとは聞いてたけど、ここに生誕地があっととはね。
もうちょっと知識を深めてから見に行きたいって思いもあるけど、そうそう長岡にこれないしね。

入館料500円を払い入場。
館内にお客さんいないし、撮影禁止じゃないよねとパシャパシャ撮ったその結果を。
まずは、記念館外観と、館内の様子。

     


山本五十六とは・・・
明治17年(1884)、儒学者の家系に高野五十六として生まれ、聡明で、中学の頃からベンジャミン・フランクリンを尊敬、猛勉強するなど広い視野を持っていたとか。旧長岡藩家老・山本帯刀家を継ぎ、旧会津藩士族の娘と結婚。文武両道、質実剛健、常在戦場の長岡らしい精神に磨きがかかる一方、石油や空港に早くから注目。リンドバーグの大西洋横断にも触発され、特に空港の重要性を力説。太平洋戦争開戦時、その先見性を世界に実証した。
開戦にはあくまで反対し、「この身滅ぼすべし、この志奪うべからず」と、わが身の危険を省みず、日独伊三国同盟に断固反対した姿勢は、人々を愛し、郷土を愛し、慈愛の心を強く保っていたからこそと。
開戦後は、連合艦隊司令長官として未曾有の大戦争の指揮をとり、その能力は高く評されるところ。
昭和18年(1943)ブーゲンビル島(マレー半島)で戦死という最後だった。

戦略もなくただ単に思想から戦争に反対した輩、敗戦後戦争反対だったと声高に主張する輩は、虫が好かんで評価するにも値せんってのが個人的見解ながらも、中枢にいながらその力量を見極め、身の危険を省みず反対という意思を通した五十六の生き様は、尊敬に値する。
いざ方針が決まるなら、国のために全能力をかけ働いたってことも好きなとこ。
自分の意思はしっかり主張するが、いざ全体方針が決まれば国のためその方針に全力で尽くすのが一将としてのあるべき姿勢よね。
最後まで講和を模索しながら、真珠湾攻撃を指揮したのがこの五十六であることが、なによりもその事実を表してること。
やるなら全力で、トップの方針が決まったのにぐだぐだいってる輩は、普段からそんな好きじゃなくてね。


五十六の結婚は、30代後半のこと。
20代の部下には、家庭を持つと仕事に打ち込めなくなる、結婚は30代になってからしろと諭していたとか。
ふむふむと少々彼の価値観には賛同と。




五十六の書も残る。
「常在戦場」は、長岡藩の心意気よね。
「至誠」は、最近個人的にもお気に入りで、モットーとしてる言葉でもある。
相手に対して誠意を尽くす、これを忘れなきゃ何事もうまくいくものよね。
あっ、仕事or知ってる人の関係ではよ。普段の生活じゃ自由気ままでとてもこう言い切れんでね。

写真はないけど、五十六が好んで書いた、一節も。
「国大なりといえども戦いを好まば必ず亡ぶ 天下案ずるといえども若し戦わば必ず危うし」
五十六の戦争に対する姿勢が見て取れるもの。

なんにせよ、10代に書いた手紙にしても、なにせ達筆すぎて、まったく自分が恥ずかしくなってくるよ。

       


連合艦隊司令長官山本五十六ら11名を搭乗した海軍一式陸上攻撃機は、昭和18年4月18日、ソロモン諸島バラレ島におもむく途中、アメリカ空軍の戦闘機の襲撃を受け墜落し、全員が戦死することに。
アメリカ軍が長官の行動を解読し、待ち伏せ攻撃で打ち落としたとは、かつて聞いた話。
現在のパプアニューギニアのジャングルで搭乗機の残骸が見つかり、その左翼部分がこの記念館に飾られている。





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山本五十六生家

せっかくなんで、山本五十六生家にも寄る。
現在山本記念公園として、記念館の近くにあって、生家も復元しているというとこ。
普通の家で、誰でも気軽に入れるようになってるとこでした。

2階建てで、2階部分の2畳の小部屋が五十六の勉強部屋(右写真)だったとか。
彼の勉強方法は、兄に体を心配されるほど猛烈だったみたい。

    



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河井継之助邸跡

余計な時間をくったが、さーて本題。
河井継之助邸へ向かう。

北越戊辰戦争後長岡を戦場にした戦犯として、一部の勢力から恨みをかった河井家は、町中に出ることも難渋したという。
藩主が河井家を庇護するよう、かつての藩士に禄を与えて養わした程、その後の河井家は大変だったとか。
子供はいなかったから、両親と妻の河井すがが残り、結局長岡を出て東京にでることになる。

河井邸は、今は残っていなく、跡のみといった感じ。
ただ当時の庭はそのまま残り、史跡広場として現存。
継之助が住んだ、その場を訪れるのもいいものよ。





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栄涼寺

河井邸を見た後、少し離れた栄涼寺に行くため、駅に車を取りに行き、車行動開始。
せっかくだから、使わなきゃと車をね。
栄涼寺に駐車場がないながらも、近くに郵便局を見つけここを利用。

なぜ栄涼寺といえば、ここは長岡藩藩主牧野家の菩提寺で、河井継之助の墓もここにある。
そう、お墓参りに来たのよね。

          
左:栄涼寺入口
中:牧野家の墓。うーん、やっぱり規模が違うなと少々感心。
右:継之助墓。長岡まで来ましたよって挨拶し、いろいろお話しして来ました。



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小千谷へ

13時半を回り、残り2時間程度。
どうしても行こうと思ってた、場所へ行く。
そこは、長岡市郊外の榎峠にある古戦場パーク。
隣の朝日山と共に北越戦争最初の戦場で、長岡城攻略のための要所であり、新政府軍に占領されたいたこの峠を、開戦を決意するとともに継之助の命で最初に攻め落とした地。
長岡藩の戦闘振りも垣間見れるし、ここからなら長岡市の全景も見れるかなと期待を込めての行動。

車で15分程度行くと着くこの地は、行ってみるとなにやら工事中で立ち寄れない雰囲気。
そう、ここは17年冬に起きた新潟地震の震源地に程近く、左に行けば山古志村、右に行けば小千谷市が隣にあるとこ。
地震の影響かねと思いつつ、榎峠散策は諦める。


これが車からの榎峠。長岡市への南方の入口になって、平野から小高い山になる最初の場所。
こんな写真しかないけど、雰囲気だけね。


となると、右手の信濃川を渡ればすぐ小千谷だから、こっちに行こうかなと車を進める。
できれば小千谷にも行きたかったけど、時間の関係で無理だろうと思ってたから、ちょうどいいと。



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慈眼寺

信濃川にかかる、壮大な越の大橋を渡り、小千谷市内へ。
あいまいな地図にかなり迷うも、何度か車を止め検討結果、ようやく目的地付近に来てね。
なにせ小千谷情報は、歴史本にまんが絵で書かれた地図のみで、小千谷駅と小千谷ICの5,6キロある中間辺りで、国道沿いにあるのかなってな程度。
そう、今回の目的地は、慈眼寺。

慈眼寺とは・・・
独立中立的立場として戦争を回避しようと模索した、長岡藩筆頭家老河井継之助が新政府軍と談判し、通称「小千谷談判」として知られているその場所が、このお寺。
長岡藩を始め北越同盟軍を睨みながら、会津藩と戦っていた新政府軍の本拠地が近くにあり、継之助はぎりぎりまで戦わず自身の藩を保つため、新政府首脳に見せるよう嘆願書を持参した。

継之助は、新政府の東山道先鋒総督府軍監岩村精一郎らとのこの小千谷談判で決裂。
新政府軍に決然と挑戦し、激烈な北越戊辰戦争の開始となる。

軍艦岩村は、戦争ありきで継之助のまともに相手にしなかったとは、後日談として有名な話。
継之助を「門閥のばか家老と思った」との岩村の発言は、今でも残る。
この話を政府軍参謀山縣有朋まで、大将西郷隆盛まで届いていたら大きく歴史は変わっていただろう。
土佐出身の、これを契機に戦場から外され、後々政府役人としても多くの問題を起こした岩村レベルが軍監だったために起きたこの歴史的事実は、悔やむに悔やめんとこだろうなと思うとこ。


・・
そんな談判の地を訪ねたくて、小千谷を選んだというわけ。
小千谷という町は、山の斜面にできたという感じで、とにかく坂のある狭い土地に密集した町。
慈眼寺は、その町中にあり、そう坂に囲まれたとこにね。

車でうろうろしてもいっこうに場所が分からず、時間もないしとかなり焦り始め、適当な道の空いたスペースに路駐し、歩いて探すことに。
歩いてるばあちゃんに道を聞き、方角を定めて、走る走る。
地震で裏斜面が崩れたから・・なんてこといってたけど、とにかく寺に近づいて考えようと、話も途中で打ち切り走り出す。
確かこっちよねって方角だけど、どこまでいってもそれらしき建物なし。
ようやく見つけた人にこの辺ですか?って聞いてみたら、案の上まったく違うよだってさ。
上ってきた坂を走って駆け下り、再び道を聞く。
うん、旅の恥はなんたらって奴で、もうこうなったらなりふり構わず、聞きまくりとね。

元々この辺かなと車を止めた場所から大違いで、15分程度のランニングの後、ようやく到着。
裏山で崖崩れがあり、裏道が通れないのもありほんに遠かったよ。
寺の外観を見、寺の中を覗く。
ここであの歴史的談判が行われたのかしばし感激し、もう時間ないやと後にする。
寺の正門は地震で壊れたとかで大規模修復中。
道沿いもあちこち工事中で、地震の影響を見て取れる、そんなとこでもありました。

          
左:岩村・河井会見の処の石碑
中:地震で壊れ工事中の正門
右:会談が行われた慈眼寺





新潟駅へ


15時20分に小千谷を出、16時前に長岡に到着。
ガソリンスタンドでガソリンを満タンに入れ、レンタカーを返しに行く。
走行距離60キロ、ガソリン4g程度で460円とかなり追加料金はかなり安め。
6時間利用で、60キロ。まあ、好きなとこいけたし、元は取れたと思うけど。


力はないけどよく頑張ってくれたよ、スズキMRワゴン。


16時過ぎに長岡駅の時刻表を見て気付く。
ちょうどいい時間の新潟行き電車がないのよ。
鈍行でのんびり行こうとも考えてたけど、そうもいってらんないから、16時10分発と待ち時間なしの新幹線を選択する。
観光重視で昼を抜いてたから、早めに新潟行ってご飯食べようと思ってね。

新潟新幹線は、また西方とは形も違うし、新幹線から見える景色も違うし、これはこれで収穫。
電車賃も、2900円と結構安い。特急料金1800円と思えば、ちょっとしたアトラクションでしょと。
そう、景色は、農地と住宅地がしっかり線引きされててね、高速道路を挟んで見事なまでに。
これはちょっとおもしろかったな。

     



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食事

16時30分過ぎに新潟駅着。
17時30分には空港行きバスに乗りたいなと、1時間を予定し食事場所を探す。
せっかくなら、おいしい米が食べれる店でとうろうろ。
古町まで出る時間はないし、本屋で雑誌を見てもいまいち駅近くにおいしそうな飯屋なし。
こうなりゃ仕方なしと、駅ビル内をうろうろと。

もち豚のおいしそうな店を見つけるも、お米は体に優しい玄米ですだって。
何が悲しくて新潟で白米食べないのさと、悔やみつつ却下。
結局、駅周辺をふらつき、新潟のお米を看板に掲げる店発見。

早い・安い・おいしい食堂「はんだや」なるとこで、24時間営業の店。
その辺のチェーン定食屋というきらいもあるが、まあうまい米食わしてくれるならよしと。
おかずは一般的なものだけど、米はうまかったよ。
大盛ご飯を頼んで、満足。
結構単品とったけど、600円程度だったから、安かったな。

     



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新潟空港

バス停に行くと、17時30分のバスがちょうどあり、これにのり空港へ。
18時に空港着で、まずはお土産を買うため売り場を物色。
万が一地震があったらと、隣の席の人に新潟行きますんでって言ったもんだから、何か買っとこうかなと。
いろいろ見比べ、濡れ煎餅(450円)なるものを選択。
おいしいし、量があるし、なにより安いし手軽でいいかなと。
無駄な土産は買わない主義に変えたので、家族等にも全くなし。
後は、近日会うお友達に越後ビールのセットをね。

18時50分、飛行機に乗り込み開始。
機内から、夕日に映える飛行場を眺め、しばしその景色にひたる。
飛行機から見る雲の上の夕日も見事だったな。
席はがら空きだから、窓側に勝手に移動し、景色を楽しんでました。

    



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福岡空港

20時30分、福岡空港に到着し、駐車場まで歩いていく。
迎えに来てって連絡すると郵便局前で待てだってさ、そんなとこ分からないっつうの。
めんどくさいから歩いていきますって電話を切ってね。

駐車料金3000円を払って、帰路に着く。
・・・のはずが、せっかく博多に来たのに、それも自由に動ける車でってことで、21時過ぎに博多散策にでかけてね。
屋台でラーメン食べたりと1時間ちょい道に迷いながらうろうろし、ようやく帰路に。

明日仕事だし、ぶっとばして帰ってみると結構早く着くもんだと。
博多駅−山口市自宅まで、しめて1時間35分の道のりでした。
こんな近かったかいなと思いつつ、2泊3日の新潟旅行を終えることに。





旅感想


今回の旅は、河井継之助を中心に、北越戊辰戦争の史跡巡りが目的。
本を読み詳しく知った歴史の流れを、歴史の起きたその場で実感するために。
行きたいとこはほぼ抑え、思った以上に順調な旅になったなとの感想。
その生き方に惚れ込んでいる継之助関連施設もほとんど行き、十分に彼を感じることができたし。
もちろん新潟のよさもつぶさに発見、これまで未開の地に近かっただけに、そういう意味でも価値ある旅だったなと。

今回は移動の多くに列車を利用し、それがこの旅日記の題「トコトコ越後旅日記」にも反映させてんだけど、列車移動の醍醐味を実感できたことも大きい。
東南アジアのマレー鉄道で味わった楽しさを、日本でも味わえるということを見出せた。
目的地を目指して少しでも早くってのじゃなく、のんびりした時間を過ごせ、今までにない良さを感じたなと。

新潟には多くの魅力があるのに、あまりに知られていない。
宣伝にも問題あるだろうけど、なんとももったいない。
今回は、自分の好みを追求した旅だから他の人に当てはまるとは思わないけど、知られている以上の見所は多くあったもの。
まだ見逃したとこあるし、もう一度くらいはのんびり旅してみたいと思わせる、そんなとこでした。