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トコトン播磨満喫記 

2日目スタート


宿泊地バス停塩田発9時過ぎのバスに乗り、再び姫路駅へ。夕暮れとはまた違う、緑に囲まれた景色を見ながらの移動を楽しみ、9時45分、姫路駅に到着する。コインロッカーに、着替えを入れてるバックパックを預け、行動開始。午前中は、レンタカーを使い、郊外の目的地を目指す予定も、まずは、午後からの電車移動の計画を優先し、緑の窓口で時刻表を確認する。

電車での移動を考えるのは、新潟旅行で味をしめたことによる。のんびり電車に揺られながら、時に景色を見つつ、時にうとうと昼寝をし、時に本を読みんで過ごす2時間程度の移動は、なによりのいい思い出になったもの。レンタカーを借りながらも、あえて電車移動を加えようとするのは、そんな理由による。

電車移動の目的地は、三木城址のある三木市。姫路市から30km程度の道のりも、電車で行くには結構不便。姫路駅からJRで加古川駅に行き、そこから加古川線で厄神駅へ、ここで三木鉄道に乗り換え、終点の三木駅まで行くというもの。30分に1本程度の三木線を始め、乗り換え含め片道2時間近くかかる行程。観光時間を考えると、14時には姫路駅から三木に向かう必要がある。わざわざ電車を利用するために、行きたい場所を減らすのは、本末転倒ではとの思いがよぎり。とりあえず、数本の乗り継ぎを含めた往復時刻表を書き留め、次の場所へと移動する。

まずは、昨日もいろいろお世話になった観光案内所のおばさんに、レンタカー会社の場所を確認。駅北側にニッポンレンタカー、南にトヨタとマツダレンタカーがあることを教えてもらい、さっそく近くのニッポンレンタカーを訪ねる。

とりあえず、電車利用の可能性を残すべく、6時間のレンタルで依頼。延長して12時間にしても500円の追加だからと、教えてもらう。問題は、車種。移動の手段に金をかける気はなく、もちろん軽でとまず注文。そして、もちろんナビ付きでと。ところが、ここからが問題、ニッポンレンタカーの規模によるものか、軽は出払ってない、ナビ付きはないと、どの条件も満たさず。それなら、他に行けばいいやと気楽な気分でいたところ、そんな雰囲気を察してか、小型車ヴィッツを軽の値段で出すからと妥協案の提示を受け、了承。初めての地でナビなしとは、いくらなんでも冒険じゃと思うも、地図を付けてもらうことで受け入れる。6時間レンタル料金5130円を払った後、自分の行きたい場所への道順を教えてもらい、出発する。





広峰神社


まず向かった先は、姫路城から北へ5km程度、広峰山(311m)の山頂にある、広峰神社。姫路の後背に位置し、姫路市街を一望することができる好立地にある、神社。ここは、黒田家と縁の深い地で、姫路との関わりが始まった場所とも言える。官兵衛の祖父が、備前福岡から播州に流れてきた際、ここで家伝の目薬を売って財を成し、家臣を抱えるようになる。後に官兵衛が武将として頭角を現すための礎の地と言うことができる。

姫路駅から、車で15分程で、山頂の広峰神社横駐車場に到着。車を置いた後、歩いて鳥居をくぐり、神社に向かう。
実は、この神社、官兵衛のつながりだけじゃなく、神社としてもかなり格の高い、立派なものだったりする。奈良時代、遣唐使として、二度も中国に渡った吉備真備が、朝廷に願い出て祭ったのが始まりといわれる。また、京都・祇園の八坂神社は、平安時代、都を襲った疫病を治めようと、広峰神社の神を移したものとされる。現在の本殿は室町時代中期のもので、官兵衛も同じ社殿に詣でたんだと思いつつ。

広峰山の山頂は、その名の通り広い平地となってて、鳥居をくぐってから広峰神社まで続く参道は、歩いて8分程度とその広さを十分実感できる、なかなかの距離。当時繁栄を極めた広峰神社の様子を想像しつつ、境内を散歩し、本殿へ参拝。姫路市を一望できるロケーションに、当時の官兵衛がそこで見、想像しただろう世界に思いを馳せる。姫山に建つ姫路城を中心に、どのように国を治めようと考えたのだろうなと。

      
左:山頂の駐車場のすぐ隣にある、神社への入口となる鳥居。ここから長い距離を歩くことになる。
中:広峰神社入口。山頂にあることを忘れさせる立派な造りで、格式の高さを感じさせてくれる一面。
右:室町時代中期のものとされる、本殿。かつて繰り広げられた、京都・八坂神社との本家争いは、なかなか壮絶だったとか。



広峰神社から100m程山を下ったところに、広峰展望入口という看板を発見。やっぱり追い求めるは、地形を一望できる見晴しのいい景色。広峰神社からの景色も、違った意味で楽しめたが、それ以上のポイントを求めて、山の中に分け入っていく。

今回の旅で、最も恐れてたことは、蜂と格闘する破目に陥ること。2年前にスズメバチに襲われて以来、二度目の蜂はやばいって情報と、蜂はいつ襲ってくるか分からないというトラウマ的な事情により、とんと蜂に弱くなって。蜂も命懸けてんだから、めったなことじゃ襲うはずがない、と確信めいて蜂と共存してた頃が懐かしい。姿を見ただけで、常に警戒、落ち着きをなくす有様で。

ちなみに、初日から自然を楽しんでいるこの旅は、蜂と遭遇すること多数。塩田温泉行きの横関バス停では、ベンチを足長蜂が旋回していたため、回避。宿泊先上山旅館では、部屋に入った早々、見たこともない中規模の真っ黒な蜂と遭遇。とても自力で追い出す気力もなく、宿のおじさんにお任せ。虫取り網でさっとすくい取る方法に、ちょっと感心したり。朝の散歩で、山頂への登山を諦めたのも、原因は蜂だったりする。2、3の蜘蛛の巣を落ちてた枝で取り払い、この程度じゃへこたれんと思いを強くするも、目の前に現れたしっかりくびれた体を持つ蜂に、あっさり妥協。今日一日を懸けるような場じゃない、と。宿自慢の野天風呂では、早朝から、トンボのみならず、元気よく飛び回る蜂とも一緒にお湯を楽しむことに。体を洗うどころか、お湯から出るタイミングさえつかめず、数分の時間ロスをしたもので。

恐れていたのは、遭遇機会が確実にある2日目。なにせ、山登りを予定していたから。よりによって、黒いTシャツを選択したことは、最後まで後悔。帽子も被らず、まさに蜂を刺激するには絶好の装いで。蜂蜜をむさぼる熊が蜂の天敵とは、DNAに刻み込まれ、古より引き継いできた自己防衛本能らしい。蜂とは、黒く、動く物体に反応し、襲うものとは、田舎生活を送るものには、はや常識。今日の行動は、まさに、蜂を刺激するための格好で、彼らの住処に分け入ろうという訳で、できることといえば、やられる前に、やるということだけ。無駄に刺激を与えず、襲われたら敏感に察知し、先制攻撃で叩き落すという、かなり原始的な、無謀な手立てのみで。

そして、本日一発目の危機に、この展望台へ向かう過程で遭遇。さっと逃げて、事なきを得たが、その結果得た景色が、下の右写真の通り。いったい何のために頑張ったのやらと。

      
左:展望広場入口という立派な看板に、これを無視することができず、危険を承知で山頂へ向かう。
中:これが、入口。階段は備わってるけど、人の往来が少ないようで、段々と荒れた状態に。
右:そして、着いた先の展望広場。木々が立派に成長し、下界の景色など何一つ見えず。いったい何のために・・・、と。




広峰展望広場入口の向かいは、ホテル。そこからの景色は、瀬戸内海まで見渡せる、市内を一望できる求めてた景色だったから、その様子を、パノラマで。





御着城


広峰神社界隈に50分程滞在、バスの時刻を気にせずに自由に異動できる車の便利さを実感しつつ、次なる目的地に向け、移動開始。目指す先は、御着城。まずは、御着城と官兵衛の関わりを、簡単に紹介。

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御着城
1519年赤松氏の一族で西播磨最大の領主・小寺正隆が築き、本城としたもの。別所氏の三木城、三木氏の英賀城と並ぶ播磨三大城郭の一つに数えられ、姫路城・庄山城・国府山城を枝城に持ち、三代目城主小寺政職の出奔により落城するまで、約60年間続いた。

官兵衛と御着城のつながりは、祖父重隆の時代から。二代目城主則職が家督を継いだ時、則職に仕え政務を執っていたのが、祖父の重隆。ここから、小寺氏と黒田氏のつながりが生まれ、祖父に続き重臣の位置にいた父職隆が、官兵衛の恵まれた才能を見抜き、早々に隠居、官兵衛は22歳で小寺家の重臣となる。

主人・小寺政職の筆頭家老として、多くの重臣が西の毛利につくことを求める中、一人反対、東の織田につくよう政職を説き伏せ、信長につくことを決定させた。政職の使いとしてすぐに岐阜城に出向き、信長に謁見。この席で信長に気に入られ、地方の一家老に過ぎない中、圧し切(へしきり)の名刀を与えられたことは、官兵衛という人物に対する信長の大きな評価を知ることができる一つの事実。

信長の武将・荒木村重が、裏切りにより毛利氏につき、播磨にも毛利方の力が及んでくると状況が一変。主人である小寺政職は、密かに毛利方につくことを決め、官兵衛を切ることを決意する。荒木村重への説得のため有岡城に向かった官兵衛に対し、政職は、官兵衛の処分を頼む旨の書状を密使として村重に送る。捕われの身となった官兵衛は、有岡城が落城するまでの1年近くを城内の地下にある土牢に幽閉され過ごし、落城と共に救出されることになる。

有岡城落城2ヵ月後、一転信長に攻められることとなった御着城の政職は、秀吉の降伏を勧める使者を、殺して拒絶。一万騎の軍勢に攻められ、二日間の激闘の末、政職は、城を開き逃亡。これにより、御着城は落城し、官兵衛は、信長に直属する秀吉の参謀として、新たな道を歩き始めることとなる。
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御着城とは、黒田家が世に出るきっかけとなった地で、官兵衛にとっては、まさに自分を懸けた場所。深く彼が関わったその地を踏みしめたくて、この地を訪れる。

ちなみに、この御着城は、地図に載ってないどころか、どうやら姫路在住の人にさえ知られていない場所。看板一つ出てなくて、ここにたどり着くまで辺りを何度さまよったことか。頼りにした本は、御着駅下車北東へ徒歩約10分という情報のみ。そしてようやく到着し分かったこと、道路沿いの城跡と言うにもはばかられるようなモドキの代物。ここで官兵衛が・・・、という想像を膨らませるためには、物理的な構造物はそこまで必要としないけど、あまりに目立たないその跡地に、なんともさみしさを感じたもので。

      
左:唯一、らしい城跡を髣髴とさせる白壁。確実に、御着城があった頃は、こんな白壁はなかっただろうけど。
中:この辺りが、本丸跡で、正面の建物は、城郭を模して建てられている姫路市役所東出張所。
右:この国道二号線は、御着城の真ん中を割るように走ってるとか。隣に大きな川が流れ、北側は山。前に広がる平野と、小寺氏の主城であったこの城の戦略的な意図を想像することができる。





昼食


ご覧の通り、御着城を見学したのは、周りをうろうろし、役所出張所を覗いた、15分程度。時刻は、12時30分、ちょうど昼時だなと思い、近くの店を探すことに。

特にいい店があればこだわるつもりはなかったけど、近くにガイドブックでチェックしていた店が一つあり。できれば、あなご丼等姫路特産の料理を食べたかったけど、少ない情報の中じゃ見つけることができず、ガイドブックの中で、今日の観光ルート途中にあり、おいしそうな料理にひかれた店を選んだもの。

ガイドブックの地図を頼りに、何度か道に迷って、ようやく到着。幹線沿いからちょっと住宅街に入った、分かりにくい店で。たかが4、5キロの道を30分かけ到着、それが、二日目の昼食に選んだ店、「とろろ料理 倭風酔」。

その名の通り、とろろ料理を専門とする店で、メインとなる自然薯は、和歌山県有田 新宅さんから仕入れているという、顔の見える素材を使用しているそう。米には、県産米を100%使用し、だしには、天然利尻昆布、天然羅臼昆布、天然日高昆布、ヤマヒデ厚削りだし鰹を使用、味噌から、水、醤油まで、全てにこだわっている材料を使う姿勢が嬉しい。自然薯という素材をおいしく食べさせてくれる店だと楽しみにして行っただけに、期待を超える取り組みに好感を持ち。

数種のメニューの中から選んだのは、とろろ御膳(1200円)。自然薯とろろ、雑穀米の釜飯、自然薯豆腐、むかご味噌和え、味噌汁が付くセット。求めるは、原材料より、料理の味。で、正直な感想、期待以上のおいしさ、自然薯の甘みとだしの旨みが絡まり、ご飯がすすむこと。本物のとろろ料理は、きっとおいしい、そんな思いでたまに挑戦するこの料理も、ようやくそのレベルのものに出会えたなと思いつつ。雑穀の入った粘り気のある釜飯と、滑らかなとろろを、のどに流し込むように、一気に食べ終え。

贅沢を言えば、一つ味を変えてくれるようなおかずがほしかった。言うなれば、牛タンなど望ましい。ベタだなと思いつつ、シンプルなご飯ものだけに、アクセントになるようなおかずが。料理はおいしいけど、客層が近所のばあちゃん達なのは、そんな理由があるんじゃと思いもして。健康食としちゃ、間違いなく一級品なんだけど、しっかりした味を求める若い人には、ちょっと物足りなさを感じるかもしれないなと。。

      
左・中:倭風酔入口と、店内。
右:とろろ御前(1200円)

店名 とろろ料理 倭風酔
住所 姫路市白浜町2470−3





国府山城


50分程昼食休憩。14時前に店を出て、次の目的地、国府山城に向かう。
そんな城ないですよとは、レンタカー営業所で最初に行き方を聞いた時の相手の答え。ちなみに、今回訪ねた3つの城全てそんな回答だった気もするが、国府山城は、見つけるのさえ苦労した地にあったから、印象的。御着城は、少なくとも、御着駅近くという地名にちなんでいたから、だいたいの想像ができたが、国府山城にちなむ国府山は、検討もつかず。唯一の情報は、雑誌BANCULによる、妻鹿駅から北へ徒歩5分というもののみ。

地図の妻鹿駅を基準に、徒歩5分程度の距離を車でうろうろ、住宅街に迷い込んだその先に、ようやく国府山城跡らしきとこを見つける。城跡前の道は、あまりに細く車を止める余裕はなく、駐車場整備など無縁の様子。そこで目を付けたのが、国府山城跡前にある施設、兵庫県企業庁市川工業用水管理所という事務所の駐車場。まあ、文句は言われんだろうけど、一応挨拶と、二階の事務所に立ち寄り、管理人のおじさんに、1時間ほど車を止めさせてくださいとお願い、許しを得て気兼ねなく城跡に向かうことに。

国府山とは、標高98mの小さな山。市川という大きな川の左岸にあって、その山頂にあったのが、国府山城。官兵衛が、秀吉の毛利攻めのため、自らの居城である姫路城を譲り渡した話は、既に書いたこと。そして、居城を失った官兵衛が移った先が、ここ国府山城になる。元々1333年赤松則村の勇将・妻鹿孫三郎長宗が築いたのが始まりで、官兵衛の祖父重隆が妻鹿氏の女を娶っていることからも、黒田氏と豪族・妻鹿氏との結びつきは深かったよう。そんな縁もあり、官兵衛は、その後国府山城で過ごすことになる。

      
左:川の堤防から見える、国府山。この山頂に、城があった。ちなみに、下の白い建物が、車を止めた事務所。
中:隣を流れる市川。かつては、山の急斜面が川に向かっていたことが想像できる。山頂からは、北に姫路城と市街が一望でき、その戦略的な場所柄がよく分かる。
右:かつての国府山城の様子。石垣が組まれ、なかなか規模の大きな山城だったよう。



車から見えた、城跡らしい石碑は、妻鹿城址と刻まれたもので、その隣に、小さな祠を要する荒神社を見つける。国府山城址に行くには、参道脇から山道を登る必要があるようで、神社に一礼、敷地にお邪魔することを告げ、山の中に分け入っていく。

      
左:道路脇から見える、大きな石碑。
中:国府山城址と書かれた案内板。これで、城跡を確信。
右:この石灯篭の間から、山頂へ向かう山道が始まる。もちろん最初に出迎えてくれたのは、蜘蛛の巣で。


意外と道が整備されていたのが、驚き。少なくとも、倒れた木で道がふさがれていたり、草が生い茂ってたり、土砂崩れなんて状況はなく、山道を普通に登っていくことができ。なにやら、地元の人達が、草刈等管理をしてる様子が伺える。ただ、所詮は、雑木林に囲まれた山の中。いたるところにかかる蜘蛛の巣はもちろん、辺りを飛び回る薮蚊、大きめな蜂達に何度と遭遇。観光客はもちろん、近所の人も誰もいない中、ただ、ひたすらと汗をかきつつ、山を登って。もちろん、ここでも何度と格闘したのが、珍しい来客に驚く蜂達。出会う度に、警戒する蜂とにらめっこ、その都度、これを乗り越えんと山頂に行けん、と意を決して突っ切ること数回、約30分かけ、山頂に到着する。

平らな土地が広がる山頂は、ここに城があったんだなと想像させるに十分な景色。さて、姫路市を見下ろす景色はどこから見えるのやら、と本丸跡を目指して歩いた時に、何度目かの危機が訪れる。蜂は克服した、と山登りを通じて密かに付けた自信も、数匹の群れを前に体が動かず。離れて行ってくれれば、としばらく様子を見るも、行き先の道をふさいだまま、こちらをじっと見つめる始末。このまま突っ切れば、意外とあっさり通れるかも、なんて勝手な期待も、目の前のリスクにチャレンジする程の動機付けにはならず。うん、十分頑張ったよ、と山頂にたどり着いた自分を褒め、素直に引き返すことに。

      
左:これが、山道。蜘蛛の巣と、蜂と、蚊と、蛇を警戒しつつ、汗をかきつつ山登り。
中:山頂の様子。ここを突っ切ることができず・・・。
右:いい天気で、山登り日和だったなと。



山を下りる途中、町を見下ろす景色に出会ったから、一枚。





三木城


国府山城には、45分程滞在。下山し、車で動き出したのは、15時前。車を借りて、はや5時間、電車移動はやはり諦め、このままレンタカーで、目的地である三木城跡を見に行くことを決意。地図を片手に、姫路市と隣接する三木市を目指して行動開始。

ナビがなくても、事前に地図をしっかり頭に入れ、動いてみれば、結構スムーズに目指すところに行けるものだ、なんてそれまでの自信も、長距離移動でもろくも崩れる。今回の目的地三木市は、姫路市中心地から、東へ40km。高速道路である山陽自動車道を使うと、20分程度で行けるみたいだけど、無駄な出費を極力抑えるは、いつものテーマ。海に沿って走る加古川バイパスで三木市を目指し、さっそくここで失敗をする。高架となっているバイパスは、出口が数キロごとと場所が限られてて、出発前にここで下りようなんて考えてた出口ポイントは、10キロ超の移動で既にあやふや、信号もなく順調に流れるバイパスのおかげで、それを確認する機会もなく。そして、このままじゃ神戸に着いてしまう、と辺りの標識にようやく危機感を抱き、地上に下りて。路肩に車を止めて、場所を確認。目指してた出口を2つ行き過ぎたことを確認し、再びルートを練り直し、目的地に向かう。

目的地までの道順のイメージを頭に入れ、後は、そのイメージに併せて適当に行けばなんとかなるだろ、がいつものドライブ。そして、いつの間にか道を間違え、気付かずにえらい遠くに来たものだ、ってなるのはよくやること。まあ、一人で気楽に移動してるから、少々の迷いは、許容範囲内なんだけど。

でも、さすがに知らん土地で、時間が限られた中、あまり大きな間違いはできんと、信号で止まると何度か地図で現在地の把握に努めるも、しばらく進むとそれも怪しく。途中見かけたコンビニで、ここでしっかり現状確認と、地図を片手に店員さんに場所を教えてもらい。思った以上に進んでないことに少々がっかりしながらも、道を間違ってないことにちょいと自信復活。飲物を買って、一休憩後、再び出発。警察の速度違反取締りを順調に回避し、何度かのややこしい道順を克服し、次々と変わる景色を楽しみながら、1時間10分後、三木市に到着。

今回の目的地は、三木市にある三木城。持ってる情報は、三木駅から上の丸公園(三木城址)まで徒歩。どのくらい歩くか、どっちの方向にあるのか、上の丸公園とはどこか、そんな情報は一切なく。自分のイメージは、少し小高い山の上にある姿。雨が降り出しそうな空模様に、できるだけ車で向かおうと、周辺の小高い山らしき場所を目指して移動開始。

三木鉄道終点、三木駅。ここを基準に、行動開始。



辺りを見回しながら、どこか看板は出ていないかと必死で探すも、どこにも見つけることができず。ここはもう徒歩圏内を過ぎてると、再び出発地点に戻ること3度、マイナー観光地だとは思ってたけど、ここまで分からないとは・・、と自力で探すことをすっかり諦め。

とりあえずひと休みと車をとめた駐車場の隣に、求めてた施設を発見。その名は、三木市観光協会。ここで聞けば、さすがに場所は分かるだろうと、喜び勇んで建物内へ。観光協会は今日休みだという同じ建物内にいた事務員さんの言葉は、さして問題じゃなく。三木市の観光情報は、求めておらず、ただ、三木城址への行き方を教えてくれと。そして、それならと手渡されたのが、一枚の手作りパンフレット。三木城址の案内という題と共に、道順、三木城跡の施設を書いた、A4サイズの手書きの地図。これを求めてたのよと、お礼を言って、案内所を後にし。

実は、すぐ目の前にある小高い丘の頂上が三木城跡だということが、地図により発覚。そこに着くまでの道のりは、大通りからはずれた細い裏道を抜けた先で、こりゃとても初めての者が分かるとこじゃないなと、地図を手に入れた偶然を喜び。そして、到着。頂上に開けた広い平地には、市立図書館があったり、なにやら有効活用されてる模様。ちょっと寂しいなと辺りをうろうろ歩いていると、その奥に、しっかりとらしい城跡を発見。山頂から眺める街並みに、求めてたのは、この景色よ、と思いつつ。


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三木城攻め
書写山円教寺編でも簡単に書いたけど、再び三木城についてふれる。
1578年、秀吉の中国毛利攻めに突如反旗を翻し、播磨国の反織田勢を取り込み自身の城である三木城にこもった別所長治を倒すべく、秀吉による三木城攻めが始まる。三木城を見下ろせる、東にある平井山に秀吉は本陣を張り、三木城を完全に包囲する形で、秀吉の武将が周りを囲む。ちなみに、官兵衛はこの三木合戦に参戦するも、半年後に本陣に兵を残し下山することに。毛利方に寝返った荒木村重を翻意させるため有岡城に向かい、主君小寺政職の裏切りによりそのまま囚われたとは、3つ前の御着城の項で書いたこと。

後に、三木の干殺しと称された、兵糧攻めの戦いは、約2年間に及んだ。城を完全に包囲し、間道という間道を押さえ、毛利氏からの支援も一切断ち切り、相手の飢えにより戦意喪失を狙うという戦略。血で血を見る戦いが嫌いだった、秀吉らしい、頭を使った戦い方。力で押しに押すという、それまでの戦国時代の戦いを変えた新たな時代の戦略が、ここに生まれる。

この秀吉の戦略は、決して敵には望ましいものではなかった。勝つにしろ、負けるにしろ、正々堂々と戦いを挑み、華々しく散っていくという数的に劣勢だった別所氏の思いを打ち砕く、戦わずして死んでいく多くの仲間達への無念さ。せめて敵を一人でも倒してと城外に突出しても、遠くに柵を作って防御に徹した秀吉軍に、ただ一斉射撃で狙い打たれるだけという、待っているのは確実な死のみという状況。それでも、やせ細った体で最後の気力を振り絞り、時に秀吉軍を後退させるような奮戦を何度か行い、ついに気力が失せ、籠城から2年経過後、三木城は陥落することとなる。

ここでとった秀吉の行動は、その後の戦いにも何度も使われ、世間の彼の評判を高める、契機となる。調略による戦術を得意とした秀吉が、今後それをさらに効果的にするため、比叡山焼き討ち等既に全国でその人間性を恐れられ始めた織田信長への世間の意識を変えるため等、確実に先を見越した彼の意思から出た決断。城主・別所長治とその一族の自害のみを求め、戦いに参加した他の敵将は、罪に問わないというもの。そして、長治は決断する。自分の死をもって皆が助かるなら、命を捧げようと。最後に長治が残した句が、石碑となってその地に残る。「今はただ恨みもあらじ諸人の いのちにかはる わが身と思へば」。自身の判断ではなく、周りに押されて戦いに突入しながら、最後は皆の命を守るため喜んでその現実を受け入れた、23歳の若者の気持ちを、十分察することができるその句を思いつつ、彼らが戦った三木城跡地を散策する。

      
左・中:三木城発掘調査中だというブルーシートの向うに見える盛り上がった林が、本丸跡。そして、そこから見える周りの景色。茂った木で、決して視界はよくないけど、当時の長治の気持ちを察しつつ、景色を眺める。
右:大きく広がった山頂にある平地。ここに、多くの兵が集まっていたんだろう。




三木城址から、北側を見下ろす景色。ここ三木城は、三木の平野にある釜山の山頂。目の前を流れる川が、美嚢側川で、三木城の天然の外堀をなしていた。川を渡った先の遠くに見える山の手前に、包囲している秀吉軍の武将が何重と配置されていた。秀吉がいた本陣は、この写真じゃ見えない、もっと右にある山。

三木側には、どんな戦い方が可能だっただろう、死を覚悟して全軍が突出した時、秀吉を追い詰めることができただろうか。秀吉側は、相手が降伏しない時、どのように犠牲を少なく攻めることができただろうか、相手が決死の覚悟で打ち出してきた時、どのように対応しただろうか。そんなことを思いつつ、景色を眺めて、過ぎ行く時間を楽しむ。





山口へ


1時間近く三木城跡界隈を散策し、17時過ぎに姫路に向かって車を出す。レンタカーを返して、新幹線で帰路につくために。三木城散策中に怪しくなっていた空模様は、辺りを暗闇で包み、大きな雨粒を降り注ぐ。行きとは違う道を、標識に従い素直に進み、1時間程で姫路市に到着。これで見納めかなと再び現れた姫路城を右手に見つつ、駅へと向かう。100kmを超えた走行距離に、今日一日を振り返りながら、ガソリンを補充、18時40分、忘れ物がないことを確認し、車を返す。

降り続く雨に、再び街中を歩いて、夕食を食べるプランを諦める。一日中動き回り、すっかり疲れ切った体が、帰宅を促す。最後の食事に、姫路らしい駅弁で締めようと、煮アナゴ弁当を選び、19時7分発博多行きの新幹線に乗り込む。前日早朝に家を出た1泊2日の姫路一人旅は、二日目深夜に、こうして幕を閉じた。





旅を終えて


冬の海外旅行にかこつけ始めた夏の国内旅行は、2回目を迎える。夏を選ぶ強い思いは、特にない。休みを取りやすい現実的な状況と、誕生日というお金を使うに格好の理由という、それなりのきっかけがあるに過ぎない。もちろん、無駄にお金を使う気はない。その価値がある魅力的な場所があるから、出かけていく。それを十分満喫できるだけの準備をし、確信を持って。そして、29回目を迎えたこの夏も、自分を駆り立てるそんな場所に出会い、この旅を決意する。

その歴史と、そこで生きた惚れ込む程のいい男達との出会いを与えてくれた、本に感謝。黒田如水という、隠居後の名称は知っていても、その生き方も詳しい人物も知らなかった、黒田官兵衛との出会い。日本で生きた人物に焦点を当て、いつも人というもののあり方を教えてくれる、司馬遼太郎。そして、今回の官兵衛との出会いも、彼の作品「播磨灘物語」から。

河井継之助を追った新潟旅行に続き、その物語で活躍した、官兵衛の人生を追ったのが、この旅であった。彼の見た視点で、彼がどう考え、何をもとに決断したのか、全身で感じるために。その価値観に自分との共通点を、その人生に自分の目指す生き方を感じ、既に一つの時代でその生き方を実践した一人の男に、尊敬できる人生の師として、且つ、自分ならもっと違うアイディアが出せたんじゃないかと、認めるからこそ負けたくないライバルとして、親近感を覚え、同じ地に立ち彼自身へとシンクロさせ、彼を自分の中へと取り込んでていく、いつもながらの楽しみ方。読んだ本からは絶対にたどり着けない、その地に立つからこそ見えること。本で得た彼の生き方を、確実に自分のものとするために。

そんな思いを抱いて旅立ついつもの旅、そして今振り返り、自分が想像していた以上のものを得て来たことを確信する。
一つには、姫路という日本の一地方都市を知ったこと。同じく大都市に隣接し、観光地を有する県として、どのようにあるべきかという一つのあり方を知ることができた。進んだ商業振興を始め、その地を踏んだからこそ見えたこと、これは、今後自分の判断基準として、大きな役割を果たすだろう。

そして、二つ目は、官兵衛と同じ視点に立ったことで得た、目指すべき生き方への確信。表舞台での脚光を無理に求めず、自分のアイディアに懸け、周りを活かすことに満足感を得る。参謀という裏方でありながら、こうして歴史に名を刻むまでの活躍をした官兵衛の人並み外れたレベルの高さは容易に想像できるが、だからこそ、目指すべき目標にふさわしい。彼自身を少しでも自分に取り込むことを意識して、彼の生きたその地で感じたことは、今後自分の幅として、確実に厚みを持たせてくれることだろう。

三つ目。あらためて感じた、旅での人との出会いの多さ。日常から解放された気分の高揚と、その場限りだという気楽な気持ちだからこそなせること。普段の生活じゃありえない、気軽に声をかけている自分に気付く。そこに、思わぬ人との出会いが生まれる。その人との関わりが、ただ、自分ひとりで目標だけに向かって動いていたら味わえなかっただろう経験をもたらす。いろんなきれいな景色より、おいしい食事より、記憶に残っているのが、そこで出会った人達との関わりだったりすることは、これまでの旅が物語る。そして、当然のようにそこに待っていた、思い出に残る多くの人達との関わりは、大小関わらず今後の自分の行動に影響を与えることだろう。積極的な行動がもたらす幸運。それを求めて、再び旅に出ようと思わせてくれる。


人は、様々な経験を経て、少しずつ自分の幅を広げ、成長していくもの。その手段が、別に旅である必要は、もちろんない。ただ、それを通じで確実に得るものがあるから、そしてそれ以上にそこで初めて気付く自分自身がいるから、その手段として、自分は旅を利用する。一人で動く時間の長さが、より深い自分との語らいを可能にする。現実の生活とは異なる、非日常の出来事。

旅に見出す目的はそれぞれ。仲間や家族との語らいもあろうし、恋人と一緒に過ごし深い関わりを得るためでも、心をふるわせるような美しい景色に出会うためや、自分自身との語らいだったり、そこには、それぞれに価値のある目的がある。どんな目的を求めても、その一つの時間を過ごした時、自分で想像した以上の答えを返してくれる、それが旅の魅力なんじゃないかと、自分は思う。だからまた、自分自身の何かを求めて、きっと旅に出ようと決意することだろう。


そして、そんな旅を表現する機会があることを、心から感謝している。
お金じゃ買えないものがある、そんなセリフがストンと入ってくるのが、旅を終えての今の気持ち。自分が、そこで見、感じたことが、この旅日記を通じて読んでる方に伝われば、僕が官兵衛にシンクロし彼の世界を垣間見たように、僕にシンクロし僕の求めた世界をイメージしてもらうことができたなら、なにより嬉しいことである。

そろそろ旅に出てみようか、そんな気持ちになってもらえればと、密かに思いを込めつつ、旅から43日目の今日06年9月10日、この旅日記を書き終える。気が向いた方は、感想でも送っていただければ。それでは、また書くであろう次の旅日記でお会いすることとして。



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文中の説明では、旅の情報として活用した雑誌等の解説をいくつか引用。足りない知識を補ってくれ、より充実した旅へと導いてくれた彼らに、感謝。
BUNGUL2003年秋号「没後400年播磨人黒田官兵衛」 発行:(財)姫路氏文化振興財団
るるぶ情報版「姫路・赤穂・龍野」 発行:JTBパブリッシング
観光地で入手した案内パンフレット
「播磨灘物語」 著:司馬遼太郎 講談社文庫






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