07年12月25日−30日  in イスタンブール
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オリエントの世界に魅せられて 
3日目(12月27日)


旧市街地観光


まずは、イスタンブールについて、簡単に解説。

東西文化の架け橋といわれるイスタンブールは、世界で唯一アジアとヨーロッパにまたがる街で、その地理的な特異性から3つの帝国の首都になったという歴史を持つ。ヨーロッパ側は、旧市街と新市街が金角湾で隔てられ、ガラタ橋でつながれている。ガラタ橋から見る旧市街は、7つの丘が連なり、その第一丘がトプカプ宮殿が立つ岬となる。ヨーロッパ側とは、ボスポラス海峡を挟んでアジア側となり、二つの大橋でヨーロッパとアジアを結んでいる。

イスタンブールの歴史は、紀元前7世紀頃、ギリシアの都市メガラがアポロン神託によって築いた植民地がこの街の始まりという。このときの征服者であるビザスの名が、ビザンチウムの起源となっている。そして、勢力を拡大したローマ帝国がこの地までやってきたのは1世紀頃で、2世紀末にはローマ風の街が建設された。330年、コンスタンチヌス1世がローマ帝国の都をここに移し、コンスタンチノープルと改名。395年にはローマ帝国は東西に分裂するが、コンスタンチノープルは東ローマ帝国(ビザンチン帝国)の首都として1000年の歴史を刻むことになる。1453年には、オスマン・トルコのメフメット2世が、遂にコンスタンチノープルを攻略し、オスマン・トルコ帝国の都を移し、その名をイスタンブール(永遠の都)に改名したという歴史を持つ。


3日目の朝は、5時30分に起床。7時間の時差がありながら、移動を使った睡眠で調整を行ういつもの方法で、どうにか時差は気にしなくてすみそう。ここから朝食までの2時間を、この日の予定を考えることで過ごす。

広範囲に様々な遺跡を持つ街で、観光日数が実質4日となると、効率的に回ることが求められる。ツアーのように観光ポイントごとのバス移動じゃないから、移動時間も計算に入れての検討。2日目の夜に観光を予定していた、ブルーモスクの夜景と街の散策が潰れたため、これも今後の行程に加える必要がある。それでも、旅の準備段階で行きたい場所をピックアップしていたから、後はそれをどう組み合わせるか考えつつ、トルコ初日の観光プランを練り直す。

初日に考えていたのは、宿周辺の観光スポットを回るというもの。宿は、スルタンアフメット地区という旧市街の中心地にあり、徒歩圏内に宮殿やモスクが立ち並ぶ場所にある。ちなみに、旧市街とは、ユネスコの世界遺産に登録されているイスタンブールの歴史地区の中心となる。

だいたいの観光ルートを決めたところで、朝食へ。朝食は、別のホテルに食べに行くというスタイルで、20m程離れたオベリスクホテルへ歩いて向かう。朝食会場はホテルの最上階で、海を見渡せる素晴らしい立地。バイキング形式の欧風モーニングで、数種のチーズやハム、ゆで卵にパンとオレンジジュースを組み合わせ、十分満足いく朝食となる。

      
左:朝の人通りもまばらな宿の前の街並み。イスタンブールは、ほとんどがレンガ敷きの舗装がなされ、なかなかいい雰囲気。おかげで、スーツケースの移動は大部分を持ち上げて運ぶことになり、不便ではあったが。
中:朝食を食べたオベリスクホテル。最上階からの景色は、4日目の朝食で紹介することとして。
右:バイキング形式の朝食で、食べたいものを。やはり欧州観光客向け、多種のチーズとハムがおいしくて。



8時30分にホテルに戻り、8時50分に観光に出発。まずは、宿の位置を確認しつつ近所を散策、帰り道に確信を持ったところで最初の目的地・ブルーモスクへと向かう。遺跡が並ぶスルタンアフメット地区は、どこを歩いても雰囲気のいい街並みを見ることができ、ブルーモスクに到着するまでの散策を楽しむ。

      
左:宿からモスクを目指して適当に歩いているとトプカプ宮殿の城壁と遭遇。
中:城壁伝いに歩いていくと、トプカプ宮殿の入口・皇帝の門に出る。9時から入場のため、ひと気はほとんど見られない。
右:車の回転場を擁する石畳の道。レンガ造りの建物が並び、いい雰囲気で。






ヒッポドローム


まずは、ブルーモスク前にあるヒッポドロームを見学。ここは、宿泊先のホテル名にもなっているように、イスタンブールの観光地の一つ。モスク西側に広がる公園は、ローマ時代の競馬場跡で、現在も残る3本のオベリスクが目印となっている。ヒッポドロームの歴史は、ローマ皇帝セプテミウスが198年に建造を命じ、203年に最初の馬車レースが行ったという古代競馬場。コンスタンチヌス1世が遷都してからは規模を拡大し、長さ400m、幅150m、4万人収容の大競技場となった。現在、広場を囲む街路が当時のトラックの跡で、ビザンチン時代には、競技ばかりでなく、イベントや政治活動の場としても使われてきた地。

そして、公園の中央にあるのがオベリスクと呼ばれる記念碑。3本の記念碑はそれぞれに歴史があり、「テオドシウスのオベリスク」は、エジプトの新王国時代のファラオ・トゥトメス3世が紀元前15世紀にエジプトのアメン大神殿に建てたオベリスクを、390年に皇帝テオドシウス1世が運んだもの。オリジナルは60mあったが、運ぶ途中で破損し、上部の20mだけがここに据えられているよう。「蛇のオベリスク」は、ギリシアの31都市がプラエーテの戦いでペルシア軍に勝ったのを記念して、紀元前479年にデルフィのアポロン神殿に建てられたオベリスクを運んだもの。ギリシア時代の記念碑としては最古のもので、使われている青銅は、ペルシア軍の兵士の盾を溶かしたものとか。「コンスタンチノープルのオベリスク」は、コンスタンチヌス7世が940年に建造した高さ32mのオベリスク。第4次十字軍によって周りの青銅を略奪され、石灰岩がむき出しの姿になったまま、現在に至っている。

それぞれに世界史をそのまま表したような背景を持つ記念碑と公園に、トルコという地の歴史の長さを感じる。エジプトやギリシアから記念碑を持ってきているのは、地中海を囲むこの一帯が、一つの地域として覇権が争われていたからで、紀元後100年頃最大版図となったローマ帝国が、地中海に面した北アフリカ一帯、イギリスを含む現EU圏、トルコ・イスラエルと一円を全て領土としていることに、当時の世界の規模が分かる。400年頃にローマ帝国が東西に分裂し、コンスタンティノープル(現イスタンブール)を首都とする東ローマ帝国が誕生したのは、権力が巨大化しすぎたローマ帝国内部での歪みとゲルマン民族の大移動による西ヨーロッパ地域へのゲルマン系国家の乱立が原因。ゲルマン国家に滅ぼされた西ローマ帝国に対し、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は、ササン朝ペルシアやイスラム勢力、西欧からの十字軍などの侵入に苦しみながら、15世紀のオスマン帝国のメフメッと2世に征服されるまで1000年以上続くことになる。

          
左:テオドシウスのオベリスク
中:蛇のオベリスク
右:コンスタンチノープルのオベリスク






ブルーモスク


長い歴史を思いつつ、ヒッポドロームは早々に見学を終了。続いて、ブルーモスクへ。

ブルーモスクとは、アフメット1世が1609年に建造を命じ、7年の歳月を経て完成したオスマン様式のモスク。世界で唯一、6本あるミナレット(尖塔)と、美しいシルエットを特徴とし、イスタンブールを代表するモスクといえる。ブルーモスクの特徴とも言える礼拝堂の大ドームは、53m×51mという大きさで、高さは43mあり、入場無料ということで気軽に訪れることができるのもいい。訪問時はまだまだ観光客も少なく、モスク内の静寂とした雰囲気を味わいつつ、ステンドグラスに彩られた窓を眺める。10分ほどモスク内を見て回った後、シルエットの美しさで評される外観を眺め、いよいよトプカプ宮殿へ。

       
左:大ドーム前の中庭。庭は、26本の柱が巡り、30もの小ドームが連なる回廊で囲まれている。広さは、64m×72mで、中央には大理石で造られた泉亭(清めの泉)がある。
中:大ドームの内部。半円形のドームの造りや、2600枚の窓を利用した採光の仕組みを見ることができる。
右:外から見たブルーモスク。ミナレット(尖塔)と連なるドームの美しさが分かる。






トプカプ宮殿


トプカプ宮殿とは、1453年にコンスタンチノープルを征服したメフメット2世により建造された宮殿。トプカプとは、トルコ語で大砲の門を意味し、かつて岬の砦に大砲が置かれていたことから名付けられた。トプカプ宮殿は、1856年にアブドゥルメジット1世がドルマバフチェに宮殿を移すまで、オスマン帝国の公式宮殿として使われていた。

トプカプ宮殿の立地は、ボスポラス海峡と金角湾、マルマラ海が接するイスタンブールの第1の丘といわれる旧市街の高台にあり、ヨーロッパ側の新市街とアジア側を一目で見渡せるところに、イスタンブールの拠点となるこの城塞の重要さが分かる。宮殿の敷地は、海側を2km、陸側を1.4kmに渡る城壁で囲まれ、その広さは70万uに及ぶ広さを持つ。

朝9時の開館を考え先にブルーモスクの見学を入れたこともあり、予定通り9時40分に宮殿に到着する。まずは、宮殿入口で900円を払い入場。壮大な表敬の門に、力の大きさを感じる。

   
左:皇帝の門から入ると、城壁の内側は広大な公園となっている。この先にある表敬の門より内側が宮殿で、入場料が必要になる。
右:表敬の門。左右の塔は16世紀の増築したもので、この門を馬に乗ったまま通されたのはスルタンだけだったと言う。



広大な敷地に、見て回れる箇所は限られてくる。午前中の観光を目指し、目的地を絞る。

まずは、表敬の門を入ってすぐ左にある建物ハレムに向かう。ハレムとは、宮廷の女性達の居住区で、男性はスルタンと皇子、黒人宦官以外、足を踏み入れることさえ禁じられた場所。イスラムの教えどおり一夫多妻制だったオスマン帝国では、スルタンも4人の正妻をめとり、女官や女奴隷など身の回りの世話をする女性達をハレムに住まわせたという。

      
左:ハレムの建物。入場は別料金で、900円を入口で払う。ツアー形式で、簡単な英語の解説を聞きながら、中を回る。
中・右:ハレムを入ったところ。装飾の美しさ、特に青タイル地の壁面は、目を見張るものがある。



      
左:皇帝の広間。ハレム内の最も広く、豪華な装飾が施された空間。スルタンが側近や家族を集めて宴を催した場所で、シャンデリアを始め、しばしその見事さに見入ってしまう。
中:皇子の部屋。スルタンの兄弟や息子が幽閉された部屋。後継ぎの息子以外は、権力争いの源とならないよう人目に付かないハレムの奥に閉じ込めていたという歴史を持つ。ただ、ステンドグラスの窓といい、最も美しい部屋の一つだったけど。
右:宮殿自体が高台に位置するため、テラスからは街を見下ろせる。狭い空間の息抜き場といった感じ。



ハレムの見学を終え、残りの時間で宮殿の中を歩いて回る。宝物館では、歴代スルタンによって集められた世界有数のコレクションが飾られる。世界で7番目の大きさという86カラットのスプーン職人のダイヤモンドや、世界最大級の3個のエメラルドで飾られたトプカプの短刀などは、ちょっとした見もの。写真を撮れなかったから、ご想像を。

      
左:幸福の門。スルタンとその一家の私的スペースである第3庭園に通じる門。
中:謁見の間。幸福の門を入った正面にある建物で、スルタンが外国の大使や政府の高官などと謁見した場所。部屋の入口横に手洗い場があり、話が外に漏れないよう、会議中は水を流しっぱなしにしていたという手法がおもしろい。
右:宮殿内のモザイク画を修復中の様子。伝統的な技術を引き継ぎ、遺跡の質を保っている様子を見て取れる。



      
左・中・右:宮殿の北の端にある大理石のテラスから見える景色。左は、金角湾とその先に新市街とヨーロッパ側の街並みが広がる景色。中は、ヨーロッパ側とアジア側を分けるボスポラス海峡が続く景色で、右と併せてアジア側の街を見ることができる。この景色からも、イスタンブールの全域を見渡せるトプカプ宮殿の立地の重要さが分かる。海を前にした城壁の姿といい、壮観な景色が広がる。






昼食


食事に力を入れるのは毎度のこと。今回も、ガイドブックに乗るトルコ料理を参考に、食べたい料理とレストランをピックアップ。限られた食事回数から、その一回一回を大事にしていこうと考える。そんなことから、この日は昼前に宮殿の見学を終え、そのまま目当てのレストランでランチと考えていたが、宮殿の観光が長引いたこと、次の観光地との位置関係から方針転換。

利用したのは、トプカプ宮殿の北端に位置するテラスの階下にあるトルコ宮廷料理の店「コンヤル」。1897年創業とトルコで最も古いレストランの一つとなり、宮殿内の建物を利用した造りに他にはない雰囲気を持つ。オスマン朝時代のトルコ宮廷料理を今も守り続けているという名店。それでも、もちろんそんな高級ランチを食べられるわけもなく、テラスで食べる気軽なランチを利用。ガラスケースに入った具材を見ながらチキンのドネルケバブを注文、目の前にマルマラ海が広がるテラス席に座り、贅沢なひと時を過ごす。

      
左:宮殿の一部を利用したレストラン。上の写真を撮った宮殿テラスから見下ろしたところで、これを見たためこのレストランで食べようと思ったところも強い。城壁内側に並ぶ白丸テーブルに座り、午後の観光の計画を練りつつ、食事をする。
中:ガラスケースに入った食材。牛と鳥のドネルケバブが奥の方で焼かれ、それを削ぎ落としては、ここのケースに運ばれる。
右:チキンドネルケバブ(1100円)と缶コーラ(550円)。うーん、なんともいい値段だけど、ドネルケバブは香辛料がよく効いておいしかったな。






考古学博物館


トプカプ宮殿でランチを終えたのが、12時10分。午後は、宮殿中心の散策を計画していたから、そのまま宮殿を後にし、次の目的地へと向かう。

続いて向かったのが、トプカプ宮殿の第1庭園に隣接し、宮殿の建物を改装している考古学博物館。トルコ国内の遺跡で発掘された古代美術の名作を所蔵し、その数は、紀元前15世紀から20世紀まで、約10万点に及ぶという。その国の歴史を表す、遺跡から発掘したオリジナルの展示には興味があるから、ここを訪ねたもの。

入口で450円を払って入場。思った以上に広い敷地と展示スペースに、少々疲れが出てきて、端折りながら見学する。

      
左:宮殿の一部を利用したという博物館の建物。2階建てで、2階にはローマ時代の彫刻を見ることができる。
中:お気に入りのライオンを描いたモザイク。青の色使いがきれいで。
右:紀元前4世紀作のアレキサンダーの石棺。大王は、バビロンで急死したため、遺体は収められていない。






アヤソフィア


博物館の滞在時間は、40分ほど。次は、トプカプ宮殿を出たところにあるモスク・アヤソフィアへ。このアヤソフィアの歴史は、イスタンブールならではのものなので、興味があったとこ。最初の聖堂は、360年にコンスタンチヌス2世によりコンスタンチノープル総主教会として建てられている。その後、再建が続き、537年にユスティニアヌス1世の「ソロモンの神殿より立派に」との命で、ビザンチン建築の最高傑作といわれる現在の建物ができる。その後、8〜9世紀の聖像破壊運動や、1204年の第4次十字軍による略奪を受け聖堂が荒れ、1453年、コンスタンチノープルを征服したオスマン帝国のメフメッと2世によりモスクに改められる。その際、偶像崇拝を禁じたイスラムの教えに従って、モザイクは漆喰で塗り固められたという。現在のモザイクが蘇ったのは、トルコ共和国となった1934年以降のことだとか。

キリスト教の教会として始まり、モスクへと変わっていった歴史は、この街の為政者の移り変わりを表すもので、おもしろい。建物を破壊するわけではなく、それを活かした活用が、歴史ある美術品を現在まで残すことになったという偶然を思いながら。

      
左:建物内部は改装中。建物は、縦77m、横71m、高さ56mの大ドームで、世界で4番目の大きさを誇る。2階から見下ろすと、その建物の壮大さがよく分かる。
中:1階から2階へと向かう通路。多くの人々が歩いたことによる石畳の輝きに重ねた歴史を感じて。
右:アヤソフィアの代名詞ともいえるモザイクアート。2階の回廊を始め、金色に輝く数種のモザイクを見ることができる。






イェディクレ城壁


14時5分にアヤソフィアを後にし、トプカプ宮殿周辺の散策を終了。少し離れたスルタンアフメット駅まで歩き、ここからトラムに乗ってシルケジ駅まで向かう。トラム駅のすぐ側にあるのは、ヨーロッパへと続く国際列車の終着点・シルケジ駅。オリエント文化を擁するイスタンブールの魅力を求めて、多くの欧州観光客が降り立った歴史ある駅の重厚な建物をまずは見学。人々の旅行形態の変更により、パリとイスタンブール間を運行していたオリエント急行が1977年に廃止されるなど本数は減少傾向にあるが、現在もハンガリーのブタペスト、ギリシアのアテネ等3本の国際列車が運行しているよう。

      
左:トプカプ宮殿等観光名所が集まるスルタンアフメット地区の中心を通る大通り。ここを路面電車トラムが走り、この先にスルタンアフメット駅がある。
中:歴史を感じさせる重厚な造りが特徴のシルケジ駅。
右:シルケジ駅を少し歩くと、金角湾とその先の新市街を望むことができる。傾斜が続くイスタンブールの街にあって、数少ない平地といえ、ゆっくりと散策を楽しむ。



シルケジ駅周辺は、ヨーロッパ側の旧市街と新市街を分ける金角湾を目の前にする港となり、新市街へ渡るガラタ橋やアジア側へのフェリー乗場エミノニュがある。丘の上を中心に見てきたこれまでの景色とは違う海辺の景色を見ながら、しばし散策。海側から見渡せる、7つの丘を持つというイスタンブールの造りに、この街のおもしろさを思う。


金角湾が広がり、左が新市街へつながるガラタ橋。新市街では、丘の頂上に立つガラタ塔が一際目立って見える。



新市街の観光は、4日目と考えているから、港の散策も適度に切り上げ。ここから再び鉄道のシルケジ駅へ戻り、15時発の列車に乗る。午後の観光の目玉にしていたのは、イスタンブールを守る防御として活躍した城壁を訪ねること。イスタンブールは、外敵から街を守るため旧市街を覆うように造られた城壁を擁し、ローマ・ビザンツ時代には鉄壁の防御を誇ったという。その名が知られたテオドシウスの城壁は、メフメット2世がこの街を陥落させた時も、結局この城壁を完全には崩しきれず、ビザンツ側の鍵の閉め忘れによって街に入ることができたという。テオドシウスの城壁も訪ねたかったが、立地の不便さから列車で行けるイェディクレの城壁を訪ねることに。

      
左:シルケジ駅構内。トラムと同じく、120円を払い列車に乗る。
中:郊外の住宅街を通るため、地元住民の利用が多い。買物帰りの人々でにぎわい、結局立ってイェディクレまで向かう。
右:列車から見える景色。城壁の一部やその先にある海を見ることができ、列車ならではの旅を楽しむ。



シルケジ駅から列車に乗って5駅ほど、駅を降りてひと気のない道を5分程歩く。しばらくして目の前にそびえる石造りの城壁に、到着を確信。城門で入場料450円を払い、中へと進む。イェディクレとは、7つの塔という意味を持つ要塞で、テオドシウスの城壁の南側になる。388年に造られた凱旋門に端を発し、テオドシウス2世の時代に城壁の一部として要塞化されたものだとか。

城壁内は、観光客はおらず、軍隊がキャンプを張って休憩中となんともおかしな雰囲気。まあ、軍人さんにかまわず、城壁内を動き回ることに。

      
左:イエディクレの入口。ここの門を通り、中に入る。
中:城壁に上るには、手すりのない急な階段を上ることになる。
右:手すりがないだけで、思った以上にスリリングな回廊。壁のある端を選んで歩き回る。



   
左:要塞の内側を上から見下ろす。7つの塔で城壁を結んだ構造がよく分かる。
右:16時に近づき、だんだん日の光も暖かな色へと変わってくる。石造りの城壁とのコントラストが印象的。




城壁からの景色。3段の城壁からなり、きれいに残る街側の城壁が続く様子が分かる。この先に、テオドシウスの城壁があり、金角湾まで旧市街を横断する形で城壁が続く。難攻不落といわれたイスタンブールという都市の守りの構造がよく分かる。






夕食

夕日が沈む景色はきれいだろうと引かれるが、城壁界隈の治安の悪さを耳にしていたことから、早めに退散。日が沈む前に旧市街に戻ろうと、16時10分の列車に乗り、再びシルケジ駅へ。夕暮れ時の景色を眺めつつ、トラムに乗っていったん宿まで帰り、ひと休憩。辺りが暗闇に包まれ始めた17時30分に宿を出、夕食を食べに出かける。

宿に帰ってからの30分間にいろいろ考えたのは、夕食所。そして目指したのが、「ブハラ」というスルタンアフメット駅からさらに街中に入ったところにあるトルコ料理の店。ブハラは、約30年続くケバブ専門店で、ラム肉、チキン、野菜など約20種のケバブが店の奥の炭火コーナーで香ばしく焼き上げられるという。地元客で埋まるという評判も好印象で、選んだもの。

ある程度場所をイメージして向かうも、人通りを外れ暗闇の街中を歩き続けても店は見つからず。途中何度も地図で場所を確認するが、通りの名を確認できず、現在地にも自信がなくなる。あまりのひと気のなさに、少々危険を感じ、探索もここまで。人気店なら、近くまで来れば煌々とした明かりで照らされているはずとの推測で、場所を詰め切れなかったのが敗因か。こんなことなら、初めからタクシーを使っておけばとは、毎度思うことだけど。

      
左・中:イエディクレから、ひと休憩しに宿に帰る途中。夕暮れ時のブルーモスクを様々な角度から。中は、宿のすぐ近くの通りで。
右:「ブハラ」を目指しさまよった通り。ひと気のない通りをもう少しだけと進むも、ついに諦め引き返すことに。



それでも、そこで切り替えができたのは、2番手を用意していたから。見つからなければとの保険で考えていたのは、スルタンアフメット駅近くにあり、昼の観光時に場所も確認していたキョフテ専門店「スルタンアフメット・キョフテジスィ」。キョフテとは、トルコ風肉団子で、ケバブと並ぶ代表的な料理。そしてこの店は、1920年創業の老舗で、味はイスタンブール一と評判の店だという。再び大通りに戻り、お店に入る。

店内は既に多くの客がいるも、18時前の到着だったこともあり、待機することなく席に案内される。メニューを見ながら、さっそく目当てのキョフテ(630円)を注文。ついでにサラダ(360円)とコーラ(230円)を頼む。サラダは、ドレッシングがかからず、ニンジン、タマネギといった生野菜をレモンをかけて食べるというもの。お口直しにはいいが、とても一人で食べきれず。一方、キョフテは評判どおりのおいしさで、口の中で広がるジューシーな肉の旨みに満足。キョフテは、牛肉と塩、パン粉のみで作られるそうで、ハンバーグに近いが、さらにもっとダイレクトに肉の旨みが味わえるといった感じかな。添え付けのパンをたくさん食べたため、お腹いっぱいとなり店を後にすることに。

      
左:キョフテジスィの店構え。
中:注文したサラダとキョフテ。これに、パンがサービスで付いてくる。
右:少々読解に時間を要したメニュー。シシケバブが9YTL、キョフテが7YTLとの表示が。



すっかり行き帰りの目印になったブルーモスク。ライトアップされた夜の姿も幻想的で、しばし眺めて時間を過ごす。19時前に宿に帰り、歩き回りすっかり疲れた体を休めるため、20時30分に就寝する。


夜のブルーモスク。