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長門から萩市街、三角州への入口となる橋本川を渡る玉江橋からの風景。
橋から見える白壁が、これから待ち受ける異次元空間へ誘われる期待を抱かせる。
この瞬間がなんとも好き。
ついつい周りの風景へと目をやってしまうときである。

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萩市街中心地、三角州の景色。
三角州の右奥の小さな山は、指月山でその麓にはかつての萩城、いまは城跡として指月公園となり当時の石垣が残っている。
萩城を中心に、かつての武家屋敷、豪商の屋敷、白壁通りが連なり、当時の街並みと雰囲気を味わうことができる。
指月山手前の海岸が菊ヶ浜で、昔から萩の人々にとり憩いの場。
白い砂浜が続く浜辺を地元の人が歩く姿をよく見かけ、かつての志士も遊んだ場所だと説明を受ける。
夕照で有名な菊ヶ浜からは、日没時指月山に沈む大きく真っ赤な球体とそれに照らされた赤く染まった空と海を見れる至福のひとときを送れる。
これほどきれいな夕日は、そうどこでも見れないと断言できる場所。
写真手前を流れる松本川を渡ったところが旧松本村で、吉田松陰が私塾を開いていた松下村塾及び松蔭神社がある。
旧城下町を除く場所も、景色の景観を考慮した建物が並び、藩校・明倫館の流れをくむ明倫小学校では趣きある校舎や槍剣道場が昔のまま残る有備館を見ることができる。
橋本川を渡る先には、毛利家藩主の墓が並ぶ大昭院も見所の一つ。
現在の萩の町は、もともと阿武川の中にあった。
阿武川奥地から流されてきた土砂礫が堆積した三角州が、現在の町である。
三角州を挟みわかれた川は、東を流れる松本川と西の橋本川と名付けられ、その三角州の大きさは東西、南北ともに3km程であり、平均海抜高度はわずか2mの低地である。

萩市街中心部
田床山からの萩市街全景

全体景色 笠山 食事処
堀内 城下町 旧松本村
関ヶ原合戦で徳川との密約を遵守し、戦に参加せず見に回った毛利家。
岡山以西の中国地方120万石超の約束は、戦後の処理でもろくも崩れる。
勝者徳川家による容赦ない仕打ちは、周防・長門36万9千石への改易。
関ヶ原の恨みが幕府解体・維新へ向かわせた原動力だった。(萩史実です)
江戸300年間の徳川家へのその独特の気概が街の形成に影響を与え、
いまも城下町を歩くとどこかその雰囲気をで感じれるような気がする。
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