松陰神社 松陰記念館 その他施設
旧松本村
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全体景色 笠山 食事処
堀内 城下町 旧松本村
吉田松陰生誕地であり、松下村塾のあった旧松本村。
松下村塾とは、松本村の下手にあったことから名付けられた名前である。
ここでは、松陰関係を中心に、松本村の場所にこだわらず紹介していく。

吉田松陰を祀った松陰神社。
右写真は、境内入口の鳥居となる。
吉田松陰の生家や現存している松下村塾があるなど、見所の多い観光名所である。
松下村塾
幕末、吉田松陰が主宰し、多くの人材が育ったことでも有名。
木造瓦葺き、平屋建て50.90uの小屋で、当初からある8畳の一室と、後に増築した十畳半の部分からなり、多い日は、30人近くの塾生がここで学んだという。

ちなみに、松下村塾の創設者は吉田松陰ではなく、叔父の玉木文之進で、元々自宅で開いていた私塾で、松陰は3代目となる。
当時の藩士の子は藩校明倫館に通えたが、庶民の教育は地元の有識者が行う寺子屋が中心。
元々は、松本村の寺子屋の意味合いが強く大半は近所の子供達で、塾の噂が広がり幕末を動かす若者達も入熟するにいたる。
各地から選りすぐりのエリートを集めたわけでもないのに、多くの人材が出たことは、教育のたまものといえるとこ。

建物内には、当時の塾生の写真が飾られているが、名の知れた人物だけでも、高杉晋作・久坂玄瑞・吉田稔麿・前原一誠・伊藤博文・山県有朋・品川弥二郎・山田顕義・野村靖など。

この場で実際に講義が行われたかと思うと、同じ雰囲気に包まれたくしばらく立ち止まってしまう、そんな場所です。
杉家屋敷(松陰生家)
杉家の次男として生まれ、幼くして吉田家の養子となった松陰。
吉田家の親がいなかったため、養子後も松陰は生家の杉家で親・兄弟と共に生活を続けていた。
そんな松陰が育った杉家の屋敷も敷地内に現存している。
瓦葺き、木造平屋建で、十一室の他に物置と土間がある広い建物。

右写真は、邸内にある松陰が出獄後起居した幽囚室。
アメリカ密航に失敗し、萩に送り帰され、野山獄に投じられた後のこと。
三畳半の狭くて薄暗いこの部屋で、罪が許されるまで過ごしていた。
松陰神社
明治40年、伊藤博文・野村靖らの尽力で、松下村塾の域内に創建された神社。
ご神体は、松陰が愛用した赤間硯。

吉田松陰が門下生に繰り返し説いたのは、「志」を立てて貫くことと、学問を実行に移すこと。
肉体が滅んでも、志がこの世に残るものであれば、その死は意味があると考え、門下生に残した辞世、
「身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂」には、そんな思いが託されている。

処刑前、松陰が家族にあてた別れの手紙、「親思ふ こころにまさる 親ごころ けふの音づれ 何ときくらん」から松陰が持ち続けた親への思いを知ることができる。

そんな「志」、「孝行」、「至誠」の松陰の教えを思い出しに、訪れるのもまたいいもの。

松陰神社入口鳥居