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12月26日  →  27日
  
行程

6時10分   起床
7時00分   ホテルロビーでチェックアウト
7時20分   近場の食堂で朝食(おかゆ25B、アイスコーヒー5B)
7時45分   ホテル前へ港行きミニバス到着 → 港へ
8時15分   港着
8時30分   ピピ島行き船出発

10時00分  ピピ島桟橋到着
10時20分  宿(LUG GUESTHOUSE)確保(350B)
10時25分  宿を出て海辺方向へ
10時30分  津波第1波
10時50分  津波第2波
11時10分  山頂へ避難
11時40分  周りが騒然とする。津波第3波が来た模様
12時10分  日本語を話すルーマニア女性ラウディアさんと出会う
12時30分  レスキュウーボートが島内を囲んだとの報
13時10分  ヘリが島内に近づき、皆がシグナルを送る
14時00分  下から多くの人達が登ってくる。けが人多し
14時15分  飲物到着。街から運んできたようだ
15時30分  救助船が来ているが、波が安定せず港に船を付けることができないため、下山できないとの情報
15時40分  山頂で避難している人の半分が別の場所に移動することになるが、荷物を探すため留まる
16時30分  荷物を探しに下山
17時30分  荷物が見つからず、再び山へ
19時00分  日が暮れる
3時00分   ぼや騒ぎ
4時00分   ぼや騒ぎ
4時30分   蛇騒ぎ
5時30分   ぼや騒ぎ
6時00分   周りに明かりが射す
6時30分   下山開始
7時00分   荷物探した後、港到着
7時45分   プーケット行き船に乗船
7時56分   出航
10時15分  プーケット港到着

支出計   380B(1140円)
  

  
いざピピ島へ
  
迎えのミニバス
昨日予約したのが、朝8時にホテルにバスが迎えに来、8時30分の船でピピ島へ船で行く便。腕時計の目覚ましを7時10分にセットし23時前に就寝と、万全の体制。

6時45分には自然と目が覚め、さあ出発の準備。目標を7時45分に設定し水シャワーで気合一発。荷物を整理しなおし、石鹸一つを拝借。部屋を出たのが7時40分。うん、完璧予定通り。ホテルのロビーでチェックアウトし、さー時間の確認とロビーにかかる時計を見たら6時45分。だー、昨日の時差調整を1時間間違えていた。どうりでまわりは暗いし、昨日夜7時に行った飯屋も人がいなかったのね。ちょっと気になったけど、多分大丈夫と確認しなかったのが・・・。まあ、1時間早かったんだからよしとしよう。

朝飯でも食べに行こうと、街の散策に出かける。
朝7時。さすがに店はシャッターを下ろし、聞こえるは、バイクと車のエンジン音。しばらく歩くが飯屋は見つからず。こりゃ、コンビニでパンと行くかなと妥協案を検討。なにせ空腹で乗る船には、絶対に酔う自信があるもので。


朝のプーケットの様子



朝食
適当にぶらぶら歩くと、一軒飯屋が開店作業中。作業台に米麺があるのを見つけ、体に優しいスープ麺がいただけそうだと確信。気さくなおばちゃんに値段を聞いて、魚ミンチ入りを一つ注文。しばらく待って出てきたのは、おかゆだったけど・・・。まあ別にかまわず。で味は・・・、こりゃまじでうまい。チキンスープか?あっさり味にしっかりと旨みがある。パクチー(香草)としょうがが適度なアクセント。アイスコーヒーを付けての30Bに大満足。

     
こんなお店で、こんな朝食



港へ
タイ人の約束はあてにならないからと、7時30分にホテルに戻り待機することに。
ロビーで日記をつけていると、さっそくお迎えが。
あら、もう?って時計をみると、7時45分。
ほら、これだから約束なんてあてにならない。さっさと帰って来て大正解と。
いろいろなホテルで人を拾い、船着場へ到着。
潮風を浴びつつ、快適な船旅へGO!

     
左:乗り込んだ船。右:出発後、海上から出発の港を写す
 

 
ピピ島入り → 津波 → 山中避難
  
ピピ島入り
さあ、島が見えてきた。
8時30分に出発し、1時間経過したところで、ついに一面海だった景色に島の姿が現れる。
いよいよ待ち焦がれたピピ島入り。
さあ、どんなバカンスを過ごそうか、気持ちが高ぶる一瞬だ。

    


港というか、桟橋に降りて見えるは、美しい海。
そう、これを求めてやってきたのよ。
イメージが具現化する瞬間、たまりませんね。

    




宿探し
午前10時、トンサイ湾到着。
ホテルを探すため、港に大勢集まっている客引きと交渉。
HOW MUCH?
800Bとの返答。
それはない。300Bのところはない?
そんなところはない。代理店で聞いてみなと。
さっそく、港に店を構える代理店での交渉に切り替え。
300Bで探しているんだけど。
そんなのあるか。年末休暇中だぞ、ただでさえいつもより値が張っているんだと相手にもされず。
まあいいか。代理店を通さず宿に出向けば安いところがあるだろうと、港を離れ街中へ。
以前泊まったとこが安かったからと、曖昧な記憶を頼りに道を進む。

とはいえもちろん勘で動くから、いつのまにか知らないとこをずんずん奥へ。
どこにも代理店はないし、宿も見つからずどうしたものかと考えていると、建物の中から声をかけられる。なんとそこには宿が。宿を探しているのか?の問いに、そうと素直に返答。
吹っかけられたら断るつもりも、こりゃまじで宿が見つかりそうにないと500Bは覚悟。
いくら?と聞くと、350Bでいいとか。
ほらね、ほらほら、直に交渉すれば安いのよ。バス・トイレは共同だけど、部屋を見ると予想以上に立派。ほんとにこれで350Bでいいの?って確認すると、隣の人の聞かれちゃまずいからと、「しー」って仕草。どうも特別値引きみたい。海辺から奥まったところにある宿だし、客もそうこないのだろうなと。遠くまで歩いてよかったと幸運に感謝。


LUG GUESTHOUSE外観
地図で場所を確認し、ちゃんと戻れるよう宿名を紙に書いて外出へ




ピピ島散策
さっそく部屋に入り、短パン・サンダルに着替え。
早朝からの行動でようやく落ち着ける場所への到着。部屋での一休みを考えるも、ピピ島での限られた時間を考えさっそく行動に移すことに。
外出で考えるは、まず持ち物。
クレジットカードはどうしたものか。悩むが取られたらいやだから、バックに鍵をかけ保管。
ダイビングを予約しようとCカードを持ち、現金少々・ガイドブック・デジカメ・メモ帳等最小限の持ち物を布バックに入れ散策に。
まずは、海を見に浜辺へ出かけよう。後は、ダイビングショップで状況聞いて予定を立てようかなと道を進む。






津波被災記


津波第1波(10時30分)
大きな船の形をしたレストランと横を通る高台へののぼり道を左手に見、少し進んだあたり。
そう、宿から4,50m行ったあたりで、港方面から猛ダッシュで何か叫びながら駆け上がる地元の人々と出くわす。
鬼ごっこにしちゃ何かおかしい。最初の感想がそれ。
その全身から溢れ出る緊迫感が、身の危険を感じさせる。
逃げる人々の後を追い、高台への坂道を必死に駆け上がる。
後ろから聞こえるは、建物を切り裂く音と得体の知れない「ゴー」っといううなるような音。

坂道の頂上で見えた景色。
海にのまれた街の様子。
「津波だ」一瞬で気付く。
どこかしこで聞こえるbig waveとの声。一瞬にして街がのまれていっている。
人の悲鳴がこだまする。
バキバキと家が崩れる音がする。
一瞬の出来事。
目の前の物体が、引き潮とともにあっという間に沖へと流される。

   
左:波にのまれた海辺付近の街
右:避難し、津波の様子を見守る人々




第一波直後
周りで聞こえる女性の泣き声、子供を捜す父親の叫び声、お互いを抱き合い動揺を抑えようとする仲間・家族、呆然と目の前の出来事を眺める自分。
ある者はその場にたたずみ、ある者は元の場所に戻り、ある者は浜辺に下り状況を確認しに行く。
津波とは、必ず2度来るもの。1度目よりさらに大きなものが。
日本で得た知識を判断材料に、現状を見守るため山のふもとの道で、しばらく様子を見る。


津波の引き潮の力で、軋み音を出しながら崩れていく建物




津波第2波(10時50分)
第1波20分後。それは、大きな水音を立て戻ってきた。
上のものは、下にいるものに叫ぶ。
「big waveが来たぞ」
一度で終わらないその現象に、できることはより安全な場所への避難。
周りの人々と、道なき道をかき分け、ただ上を目指し山を登る。
山頂と確信できるその場所にたどり着いた時、不安の中にありながら、できることはやったという満足感と、もうこれ以上はどうしようもないという諦めから、心に落ち着きを取り戻し、体を休め待機することとなった。

   
第2波数十分後、山頂付近は避難した人々でいっぱいになる。




津波第3波(11時40分)
第3波が来たという話は聞かない。
第1波から1時間。これで落ち着いたのではないかと一人考える。
11時40分過ぎ。突如ざわめきが起き、周りの人々が一斉に立ち上がる。
あきらかに身の危険を感じさせる緊迫感。
津波が来た。
下から伝わる動揺が、山頂まで届いた時だった。
ここより先に避難する場所はない。どうしようもない。
それでも生きるためにどこかへ逃げようとする。
生命の危機に体が反応する。
焦る気持ちを落ち着かせる。
被害が及ばないことが確信できた時、再び自分の居場所で体を休めることに努めることとした。




出会い(12時10分)
周りの情報をどうやって仕入れるか。タイ語はわからない。
基本は、五感を研ぎ澄ませ、周りの空気を感じ取る。身の危険はそれで対処。
詳細情報は、欧米人の英会話から。
だいたいの様子はわかってくる。
ただわかっているつもりのところも・・・。
そんな中出合ったのが、ルーマニア人女性のラウディアさん。
たまたま自分が座っていた場所の前にいた欧米人グループの一人。
日本の大学に留学中ということで、日本語・英語ともにペラペラ。
日本の方ですかって声をかけられ、お互い話す。

これがほんとに助かった。
詳細な情報を仕入れる。
何が起きたのか?、とまず質問。
インドネシア付近で今朝地震が発生。
友達がテレビでやっていたのを見たという。
それで津波が来たのだろうとのこと。
津波は地元の人にとっても、欧米人にも経験がない。
これからどうなるかはわからないという。

これで、一つの疑問が解けた。
その後地震が起きたかどうかはわからないということなので、いつ津波が来るかはわからない状況。やはり山から下りられないことは確かなようだ。


日本の国立大学留学中のラウディアさん。
その後も色々情報をもらい、本当に助かりました。
結局下山前に分かれて、その後行き違いになったけど。




レスキューボート配置(12時30分)
周りが騒がしくなる。何が起きたのか?ラウディアに確認する。
レスキューボートが島の周りを囲んだという。
津波で海に流されても、拾ってもらえる。
海に投げ出された後の対応。一番心配していたことであり、大きな安堵を得る。




シグナル発信(13時10分)
にぎやかなざわつきと共に、喜びの表情が周りで見られる。
地元の人達が何かを叫ぶ。
どうやらヘリが上空を通過しているとの情報。
山頂の自分たちの存在を示すため、木によじ登りシグナルを送っているようだ。
そのシグナルが無駄なことと気付いた後は、もうヘリの音にも反応はなかったが。
ちょっとした、明るい話題だった。


木の上に避難していた人達が、一斉にアピールを始める。




避難民増加(14時00分)
下から人が山頂に上がってくる。けが人が多い。はぐれていた人達との再会も見られる。どうやら、ダイビング等海上に出ていた人達が戻ってきた様子だ。
人が増えたことに伴い、平地を増やすべく周りの木を切る。
どこからかのこぎり刃を持ってきた欧米人が、次々に開拓していく。
アメリカ人だろうか、彼らのシェア意識というのは驚くほどすごい。
公平・平等に。
自分の命がかかっているのに、皆が助かる方向を選ぶ。
正直自分の行動は、自分があってこその他人は二の次判断。
命の危険がかかっているのよ?
欧米人だけ、白人だけを優先するわけじゃない。
その価値観に素直に敬服するだけだった。
自分がしたことは、持ち歩いていた水着を近くにいた女性にあげただけ。
ビキニ姿で石や切り木のある地面に直接座り困っていたから。
自分の身に影響のない、ささいなシェアだけだった。
彼らは、また情報量もすごい。
どんどん手に入れた情報をシェアし、皆がどうしたらいいかを検討している。
その情報を仕入れる手段があったからよかったものの、とにかく情報がないというのは不安しか残らない嫌な気分だ。

   
左:集めた情報をもとに、問題の解決に向け話し合いが行われる。
右:山頂の周りの木を切り倒し、平地を次々に広げていく。




飲物到着(14時15分)
街から飲物を運んできたようだ。スプライト・ジュースどんどん飲物が回される。
水はない。食物もない。



状況確認(15時30分)
欧米人の間で情報のやり取りが活発になる。新情報でも入ったのか。
下にいた人達が島を離れず、山頂へやってくるのはなぜか?迎えの船が着てもいいはずだ。船で脱出させないのはなぜか?津波は予知できるもの。まだ来る可能性はあるのか。
自分の疑問も併せ、ラウディアに現在の状況を確認する。
助けの船は来ているが、波が安定しておらず港に入れない。だから自分達も下に下りられないということだ。しばらくこの状態は変わりそうにないという。
日没以降の行動は考えられない。今日中に島を離れることは困難と考える。




大移動(15時40分)
人の移動が始まる。狭い場所に密集しているためか、他に余裕のある場所があるためか、理由はわからないが、半分の人を移動させるという。
この場所より安全ではないがということ。
不必要に動く気はない。
第一荷物を取りに行く必要がある。
他の場所に移動し、自分の居場所がわからなくなることだけは避けたいから。




下山(16時30分)
下山決意。目的は荷物の確保。
津波発生4時間後に一度考えたが、周りの落ち着かない状況で躊躇。
6時間経過したことで、一応の落ち着きは見られたと判断。
新たに地震が発生したとの情報がないことを確認するが、確信は得られず。
地元民は何人か下りているようなので、様子を見ながら下山。
滑りやすいサンダルから何度も足元を取られるも、枝をつかみながら下りていく。
山の麓付近で日本人家族と会う。避難後初めて見かけた日本人。
アイランドツアーに出かけ、帰って来たらこの状況だったとか。海の上では津波は全くわからなかったようだ。津波が起きた時の状況、現在持っている情報を教える。

彼らの情報では、もう一度津波が来るという。下に行かない方がいいという忠告も。
日が暮れる前、今日中に荷物確保をしたいのでと下りる。
場所はだいたい見当が付く。
最初に見た津波から想像する被害状況、荷物を置いた部屋が2階だったことから、すぐに見つかると判断。
山の麓へと近づき、街が見える頃には、治療中のけが人、横になる人の数が増えていく。
逃げてきた道の最初の入口にたどり着くと、建物が崩壊し、メインロードが行き止まりに。


右に見えるのが、船をモチーフにしたレストラン。山へと続く、このわき道を駆け上がり、逃げてきた。
道の先は、崩れた建物や散らばったがれきで行き止まりに。


道がない。
斜面づたいに横に移動。
想像と全く違う被害状況。建物が全て壊れ、この場所からは見えるはずのない海まで見渡せる。

   
海方面を撮影。全ての建物が崩壊していた。
建物に囲まれ、この場所からは見えるはずのない海まで見える状況に。


とにかく宿を探すことに。
がれきを乗り越え、可能性が高い付近を探索。
建物の姿かたちは全くない。
ただ、崩れたバンガローの数々が横たわる。
周りを歩く地元民に聞く。LUG GUESTHOUSEはどこか?
皆その宿の場所は知らないという。
部屋は2階。宿がわかれば、荷物を取れるかもしれない。
がれきの上を歩き回る、青いバックパック目指して。
中身が飛び出た青いバックパックをみつけるが、よく見ると違う。どこか安心。
宿だったと思われる場所を中心に、探して歩く。

   
左の写真が、たぶん宿ではないかと。


がれきの下を探せる状況ではない。
歩ける平地へ下り、下から様子を見る。
段差を超える。2本の柱が行き手を阻む。
やはりあった、死体。
上半身はがれきの下へ、胴から二本の足が地上に出た、地面に突き刺さった状態。
直視できない。
よけて通る。
けが人か、死体か、地元の人が担架に乗せ運ぶ姿に遭遇。
荷物どころではない状況をひしひしと感じる。
津波が来るかもしれないという思いが常によぎり、心の余裕を奪う。
上にいる人が叫んだら、どんなことでも山へ向かわねば。
このがれきを乗り越えられるのか?
人同士が呼び合う声にも自然と反応する。
少し離れたがれきの上へともう一度登る。
足元を確認したその下に・・・、また硬直した人の姿。
荷物が見つかる可能性は明らかに低い。
命があったことに感謝し、無理やり自分を納得させ、山に戻ることを決意する。


宿の周辺から、対面の山側を写す。




山へ戻る(17時30分)
山を登ると、下山中に会った家族が高いところに移動していた。
下の状況を話す。
歩き回り汗びっしょりな姿を見かねてか、水500mlを一つもらう。これは助かった。
持っていた水は、節約して飲んでいるが残りはそう多くない。
とにかく水分が絶対的に不足している。
スナック菓子のおむすび山をもらう。
朝乗船以降何も食べていない。本当に助かった。
今後一晩山で過ごすことを考え、計画的に食べることに。
日本人家族と話していると、一人の日本人が話しかけてくる。
父親と離れた日本人の12歳の子供がいる。名を杉本という。非常に心配しているが、何か知らないか?と。上にいたが日本人は誰も見なかったと伝える。1月1日16時、この場面を書いている途中にTVニュースで杉本氏の死亡を知る。複雑な気分だ。
ピピ島には多くの日本人がいるはずなのに、なぜ見かけないのか。皆で不思議がっていたことだ。
山の中腹の今いる場所は、蚊が異常に多い。もう少し上がれば少ないからと、皆で上の平地へ移動する。




再び山で(18時00分)
限られたスペースから、日本人家族と離れ、再び一人でいることに。
上の平地では、既に枕・タオルケットが配られた後。下のホテル等から運んできたと思われる。
タイの夜は寒い。羽織るものは諦め、地面に横になる。
しばらくたって、新たに布類を持って上がってきた人が。
すかさずアピールし、シーツを手に入れ一安心。
そしてぬぐいきれない不安を感じたまま、日没を迎える。


日が暮れるのを眺める人々




山での夜更け(19時00分)
日が暮れて、横になる人や周りに集まり話をする人が出てくる。
日本人家族と少し離れた、欧米人集団の横に一人分の平地スペース分を見つけ、寝床とする。地面は土、サンダルを枕代わりに、上半身と足元をシーツでくるみ、寒さ対策。
切り倒した後の木の根元、根元が残った木、無数の枝、石ころ、緩やかな斜面、どれもが正確に背中へ情報を伝えてくれる。痛みを感じない方法はないかと姿勢を変える。ほとんど効果なし。
とにかく横になり体を休めることを最優先とする。
今夜は月が明るい。薄ぼんやりと見える景色が、心を落ち着かせてくれる。





夜8時頃。しきりにヘリコプターが通過する。
ここの存在をアピールしろ。そんな声が上がる。
懐中電灯を持っているものは、空を照らし、カメラを持っているものはフラッシュを上空にたく。とにかく人がいるんだ、そのことをアピールするために。


空に向かいフラッシュをたく



睡眠
12時から12時30分。1時30分から2時。計1時間意識のない時がある。
とにかく寝られる状況ではない。
蚊の飛ぶ音が一晩中耳元で聞こえる。シーツを耳までかけるがいなくならない。
隣に吸う奴いるじゃん。蚊は、好みにうるさいらしい。
それだけではない。
一瞬にしてフルモードに入れてくれる目覚ましが、準備されていた。




暗闇の出来事(19時30分〜)
日が沈み、辺りが暗闇と化していく。
誰かがろうそくに火を灯す。
当然の指摘。no fire!火をつけるな。
日中30度を超えるこの乾季の時期のタイは、雨が降らず乾燥しきっている。
落ち葉は乾き、ちょっとした動きで土埃が舞い上がる。
昼間にも煙草を吸う連中をどうかと思ったが、夜はそういうレベルではない。

AM3時00分
最初のぼや。
皆が寝静まったその時、一斉に皆が立ち上がる。何が起きたかはわからないが、場の空気が身の危険を感じさせ、その場から逃げる態勢をとる。暗闇での異常な緊迫感。確認の声を掛け合う。
ぼやだという。
消し止められた。
sit down & take it cool. 落ち着くよう皆で声を掛け合い、一番恐ろしい暗闇でのパニックが起きないよう努める。
皆元の場所に戻り、休みの態勢に入る。
一瞬のとっさの行動に、蓄積された疲れがどっと押し寄せる。
否応なしに疲労を意識させられた。

AM4時00分
再び繰り返されるぼや騒ぎ。
no fire!皆が言う。煙草か?まったく理解に苦しむ。
ほんとにしゃれにならん。火が付けば一瞬。
島ならではの強い風が吹いている。風下はこちら。下り道は一本道。
パニックで皆が必死に逃げることを想像する。そこは地獄絵図が浮かび上がる。
本気で逃げるルートを考えなきゃならん。
下り道近い風下か。火を超え風上かと。

AM4時30分
ぼやだけではすませてくれない。
次の目覚まし、スネーク。
寝床の奥は、やぶがありトイレとして利用している人もいる。
その程度のことはどうでもいい。
2度目のぼや後、がさごそ音がする。ふ〜ん、トイレね。
まあ、さっさと済ませてねと仰向けで睡眠。
ガサゴソが続く。別に気にならない。
隣の欧米人に呼ばれる。「何か明かりはないか?」
デジカメのスポット閃光。赤外線だが、明かり代わりにと辺りを照らす。
寝床の真後ろの音のする方向。
一匹の蛇を発見。直径4,5cm。立派過ぎ。
もう一匹いるらしい。じっくり見るがわからない。
どうせ音がするからわかるでしょとあまり気にしないことに。
もちろん寝床は藪から少し離したけど。
しばらくして4,5m離れた違うグループで蛇騒動。
さっきのうちのかな?ご愁傷様です。


蛇をとらえたけど、少し目を離すといなくなり。
そう、この写真の場所だったんだけど。

AM5時30分
1時間ごと2回あったぼや騒動にも飽きた。
どうせまたあるんでしょと、背中も痛いし、体育座りでうつぶせになり、シーツを被った態勢で体を休める。
はい、またきました。ぼや騒動。
しゃれじゃすまないんで、何度でも立ち上がり、逃げる態勢をとる。
もう3度目だぞ、何やってるんだ。後1時間もしないうちに日が昇るから。
いいかげんにしてくれと、あきれた空気になる。




夜明け(6時00分)
空が次第に青白く変化し、ぼんやりとした明るさに包まれる。
皆が上半身を起こし、無事に朝を迎えられた喜びを安堵の表情で空に返す。
これで帰れる。
長い夜が終わりを告げた時だった。


明るさがでてきたその直後




下山(6時30分)
周りを認識できる明るさとなった時、準備を整え下山へと向かう。
欧米人が固まり情報を交換している。
彼らの情報はかなり正確。
共に下りようと日本人家族に誘われる。
その前に正確な情報を把握するため、再びラウディアから情報を聞き出す。
港に船が来ていて、一つはプーケット、もう一つはクラビー行きだとか。
とにかく帰れる状態には間違いない。
クラビーなら16時にバンコク行きのバスがあるからと話をする。
パスポートはない。どうせバンコクの大使館へ行く必要がある。
バンコクで会おうとラウディアと話し、別れる。
日本人家族に状況を伝え、下山を開始。

山を抜けたところで日本人家族と別れる。
お互い宿に荷物を探しに行くために。
港で会おうと約束し、もう一度自分の荷物を探しに行く。
やはり辺りは全壊。
どうしようもない。
この先は、昨日死体が・・・。ちょっと先に進む気にならない。
周りの様子を確かめ、そのまま港へ。

   
朝の景色



   
何事もなかったように、静かな朝の静かな海だった。




港へ(7時00分)
記憶にあるメイン通りを抜け、港へ向かう。
潰れた家屋が、その被害を物語る。
障害物競走のように、家屋を乗り越え一路港へ。

   




がれきを乗り越え浜辺 → 桟橋へ

   



港を囲む船が待ち構えていた






船出発(7時56分)
船着場に早めの到着。桟橋の先端には、数人の人が集まり、その隣に、布を被せた遺体が数体置いてある。
しばらく橋の中程で日本人家族を待つ。
どこからともなく人が集まり、数百人規模に。
これでは会えそうにないなと諦め、乗船を優先。
タイ人優先の乗船に少々批判が上がるが、船の規模も大きいのでじき納まる。

最初の船は、プーケット行き。
この際どこでもいい。
とりあえず次に動ける経路なら。
定員を越えて目一杯乗せる方法には、かなりの不安。
席に余裕のある地下は万が一を考え避け、甲板に空いている席を見つけ、確保。
桟橋に多くの人を残しながらも、第一便が出航。
7時56分。ついにピピ島から脱走した。

   
 

 
 
 
 
 
旅行記(2004)